『欠片もいらない』の続編
もう聖夜は終わったってのにガヤガヤうるさい駅前通りを、去年買ったブーツで横切る。目立たない栗色、そんなに高くないヒールが歩きやすくて、新しいブーツを買う気が起きないまま師走を終えようとしている。手袋をつけているから、指先末端まで暖かい。景色に意識を向ける。こちらに歩いてくる見知らぬ女の子二人組の足元は柔らかい桃色と黄色の合成皮、パステルカラーのふんわりしたスカートが凝ったデザインのコートから見える。片方は歩く度カツカツ鳴るヒールにかわいい赤バラのヒールコンドームをつけていておしゃれだ。不細工な顔をお化粧でうまく誤魔化している。72点。通りすがりがてら採点している自分自身は、最高にかわいくないいつものダッフルコートに、ノーメイクを隠すためのマスクをつけている。もし自分自身でなく他人がしていたら赤点をつけているような格好だ。きゃらきゃら笑い合う二人とのすれ違い様に小さく咳をしてごく自然に顔を伏せ、気持ち狭くなった歩幅で進む。行き交う人達は皆、どこか清々しい華やいだ印象で歩んでいる。二個先の門を曲がると、小洒落た外装の小さなケーキ屋があり、入店。ドアの上部からカラカラと鈴の音が聴こえ、なぜか急かされた気持ちになった。
ガトーショコラ、ベイクドチーズケーキ、ティラミス、ここらへんはまだわかるけれど、小難しいかっこつけた名前が多くて、ハイハイ、と宥めたくなる。目移りしそうなほどたくさんのケーキが並ぶ店内の一角に、クリスマスケーキの売れ残りであろう格安のホールケーキが置いてあるのを見つけ、よし、と思う。ポケットに入れてきた薄手の財布を手にして、店員に話しかけようとしたら、既に誰かと話していた。先を越された。まぁケーキはまだあるしいいや、と後ろに並んで、その人の後ろ姿に既視感。この背丈、サラサラの髪、強そうな足は、もしかしなくても。
「荒北?」
「アァ?……ゲェ、なんでいんのォ?」
「あんたこそ、なんでいるの?」
こちらを向いた、暖かそうなマフラーを巻いた首の主にびっくりする。確信して呼び掛けたくせに、まさか本当に荒北だなんて、という反応をしてしまうくらい、荒北とケーキ屋が結びつかない。荒北は、クラスメイト、だった人だ。二年の頃、私の斜め前の席でおはようの挨拶や軽い会話を交わす相手だった。私は当時荒北に対して理不尽な嫉妬を抱いていた。強烈な憧憬は、クラスが離れた今でこそ微かに薄れているものの、こうして話すと、なんとも甘酸っぱい気持ちになる。その荒北が、なぜこんなケーキ屋なんかに。
「ケーキ買いに来たんだけどォ?」
「似合わない」
「っせ!」
お前相変わらず辛辣だねェ、なんて睨んでくる目付きは、去年よりずっと柔らかい。店員から声がかかって、直ぐにレジの方へ向き直ってしまったマフラーの隙間から、荒北のうなじが見えてどきりとする。後ろから覗くと、白い箱が置かれたレジ。荒北は箱の中身を確認してから、綺麗な指で財布からお金を出していた。ありがとうございました、という店員の声の後、先程お金を出したその長い指で箱を掴み、そのまま横にずれた。レジの前に一歩進み出ると、横に並ぶ私達。私は一瞬隣を見てから、あの安いホールケーキを頼んだ。店員によって綺麗な白い箱に閉じ込められるケーキを見ていると、無性にむかついてしまって、こちらでよろしいですか、と箱を見せる方ではなく、フランボワーズなんとか、という赤紫の綺麗なケーキをガラス越しに見ながら、はい、と返事をした。
ポケットに財布を戻すと、隣で突っ立っていた奴が動き出した。私も店を出ようと箱を手にしてドアを見れば、荒北は既に外の景色の一部になっていて、少し急ぎ足で向かう。彼は出てすぐのところで立ち止まっていた。私が通ると一緒に歩き出したので、待っていてくれたのだと気付く。ケーキ箱を落としたくなる衝動を押さえて、思いきって話し掛けた。
「なんのケーキ?」
「安物のホールケーキ」
「……うそでしょ?」
「本当だけどォ?」
「……同じなんだけど」
「ハッ。今日ケーキ買う奴なんて皆同じ考えなんじゃナァイ?」
皆同じ、なんて言葉が荒北の口から出る。鳥肌が立つほど寒い。私は手袋越しだからか、箱を手にしている実感がまるで起きない。自然と並んで歩いていることが、心の中で不自然すぎて居心地も悪い。
「もう年明けちゃうね」
「そうだネェ。本当にあっという間だった」
売れ残ったケーキを手にして学生寮まで戻るだろう荒北の横顔がすごく切なそうで、私はますます気まずい。マフラーを巻いている荒北なんて一生見たくなかった。こんな会話をすることなんてないまま高校生活最後の冬休みを過ごしていたかった。今日だって、財布だけ持ってひとりケーキを買いに行き、ひとりで楽しむつもりだったのに。
「……荒北は進路どうするの?」
私のマスク越しのかすれ声でもこの男はきちんと聞き取れたようで、一瞬躊躇うように視線をさ迷わせてから、荒北は言った。
「洋南大」
「うそでしょ!荒北が!洋南!」
「っせ!バァカ!茶化すんじゃねェヨ!」
「いや別にそういうわけじゃないけど、勉強してんの?」
「マァネ」
まさかだ。あんなに頭が悪くて口も悪かったのに、なんて思う私は、一体いつのことを基準にしているのだろう。あの狭い教室でもないのに、なんで私はずっと息苦しいのだろう。荒北は切ない面影を残したままなのに足をきちんと踏み出して歩んでいて、むかついてしょうがない。私はついに箱に詰められたケーキを手放す。
「お前何やってんのォ?ホンットバァカじゃナァイ?」
長い身体を折って道路に落ちた白い箱を拾った荒北が、そのまま何の断りもなく、角が潰れた私の箱を開ける。中身を見てしかめた顔が最高に不細工で、私は口の中で荒北の名前を呼んだ。
「お前これ潰れちまってるヨ、食べれなくはないと思……何、どしたのォ」
いいかけてこっちを見た荒北が、道にしゃがんで踞る私を気遣う。そのことがむかついて仕方ない。私は優しくない態度を、理不尽を、非情さを、優しさと認識して愛している。荒北のマフラーが私の頭と同じ位置に来たことを気配で感じ取って、膝に額をつけたままもう一度口内で、荒北、と言うと、何だヨ、と聴こえる。そうして首の位置を把握するやいなや、垂れた相手のマフラーを両手で引っ付かんだ。そのまま左右に引っ張って顔を上げると、荒北がびっくりした顔でこっちを見ていた。
「不細工」
「、ッハ、バァカ、」
私を嘲笑いながら首を絞められている。されるがままだ。飽きたので苦しそうな荒北のマフラーから手を離すと、仕返しとばかりにマスクを剥ぎ取られた。
「ブッサイクゥ」
「うっざ」
「嘘だっつの。ホラ、帰んないのォ?」
何が嘘なんだ。顔真っ赤にしてないで、今の流れの何が嘘なのかはっきり教えてよ。すたすた先に歩き出した荒北を追うように、私は立ち上がった。歪んだケーキ箱はまだ荒北が持ってくれている。そもそも、私が安売りのホールケーキを買ったのは、食べるためではない。時期を過ぎて引き下げられた価値を、とことんぐちゃぐちゃにして、捨てるつもりで買ったのだ。ひとり、ずっと続けてきた受験勉強の息抜きとして楽しむためのおもちゃみたいなものだ。
「自分で持ったらァ?」
横に並ぶと差し出されたのは、綺麗な形の白い箱。私はさっと反対側に回って、歪んだ箱を手にした。私が欲しいのは、そんな綺麗な形の欠片じゃない。ねぇ荒北、期限切れの春になる前に、私のことが好きだ、って告白してよ。私が箱の取っ手をぎゅっと握ると、荒北が、相変わらずかわいくないネェ、なんてぶつくさ言う。指先は温かい。家に着いたら、私は箱に仕舞われている潰れたケーキを一口だけ食べて、残りは皆捨てるつもりだ。