冷たい指先をどうすることもできないまま、教室のドアに触れた。開けながら、なんで教室のドアを開ける擬音は《ガラガラ》なんだろう、と思って気を紛らわせた。的確すぎて些細な反論も浮かばない。ただ、閉まる時の《ピシャン》は嘘だ。下手くそなミュージシャンにだってそんな風には聞こえないだろうから、この表現を生んだ人は凄い。席に着いてマフラーを外していたら、斜め前の席から睨むような視線。おはよ、と言うとハヨ、と返された。珍しいことに今日は朝練がないようだ。お前白似合わないんじゃナァイ、と新調したマフラーを茶化してくる癖に、私の白くなった手をチラリと見ながら、今日寒くナァイ?なんて続けてくる。荒北は優しい。

朝、今日は冷えると知って、買ったばかりのマフラーを巻いたのは正解だった。登校時冷たかった手は日中少しだけましになったけれど、帰宅する頃にはまた同じ位冷たくなっていた。ご飯を食べて、湯船に浸かる頃になると、今日が終わったな、と思う。特別感受性が豊かな方ではないけれど、なぜかお風呂場で一日を終える気持ちになる。ただそれだけの日を、何度も繰り返している。

朝のHRまで友達の席付近で昨日のドラマの感想を言い合っていると、いつの間にか荒北が教室にいて、もうそろそろHRが始まることを確認する。私も席に戻ると、斜め前からハヨ、と声が掛かる。おはよ、と返して少しだけ一限の宿題の話をする。荒北は頭が悪いくせにきちんと宿題をしてくる。福チャンがうるさいしさァ、なんてしかめっ面で言う。満更でもなさそうなその様子に、私は内心むかついている。私の隣の山田が話に入ってきて、お前来年受験だぜ、なんて笑う。私も笑う。チャイムが鳴って少しすると、ガラガラと音をたてて担任がやって来て、ドアが音もなく閉まる。密室のような朝の教室で担任は淡々と出席を取る。

放課後残って勉強していたのは私だけだった。いつもなら他にも数人いるから集中していられるのに、一人ということで気が抜けたのか居眠りをしてしまった。司書の人に下校時刻よ、と起こされて、マフラーを二回首に巻き付けて図書室を出た。靴を履き替えて校門を目指すと、前に数人の人影。そのうち一人が目について、私は一瞬躊躇った後大きな声で名前を呼んだ。

「荒北!」

荒北は振り向いてくれない。彼の周りの数人がチラリとこちらを見てくるから、聞こえていないはずないのに。やはり荒北は優しい。私が小走りで近づくと、荒北の周囲にいた、恐らく自転車競技部の男子たちは何やら荒北をからかうようにしてから散っていった。彼らには何か、私にとって都合のいい、そして荒北にとって都合の悪い誤解があるような気がする。彼らの誤った気遣いを私はちゃっかり利用してやる。そのためにも必死で近づく。だからといって荒北は歩を止めない。

「ねぇ、荒北!」
「ナァニ」

荒北の背中に追い付いた時には既に校門を出ていた。相変わらず振り向いてはくれない。後ろから見える耳は赤い。もうだいぶ寒いのに荒北はまだマフラーも着けない。

「部活?」
「そうだけどォ?」
「お疲れ」

思ってもいない労いの言葉を簡単に掛けられるようになったのは最近のことだ。荒北にあって私にない要素に、私はもう随分嫉妬している。福富に自転車を勧められて、その熱を分けて灯されてから、荒北が教室のドアを閉める音はずっと《ピシャン》だ。そうやって荒北が教室のドアを閉めた瞬間から、私の息苦しい密室の一日は始まるのだ。

「お前は勉強?」
「そう」
「こんな時間まで?」
「ちょっと寝ちゃってた」
「バァカじゃナァイ」

容赦ない嘲笑に少しだけイラッとして鞄で背中を殴る。今こうして並んで歩けているのは荒北が歩調を緩めているからだ。そのことに私は余計イライラして、ドジ臭い、と尚も馬鹿にしてくる荒北をバシバシ鞄で殴る。ただ勉強をするだけで進めてしまうようなつまらない進路しか目指すところのない私と、この薄っぺらい男の中に灯された熱すぎるほどの未来への熱量の差に、私はむかついている。荒北は私に熱を分けてはくれない。冷たい私の手を握ってくれることはない。そういう優しさが私はとても好きで、けれど時々、わざとズタズタに引き裂きたくなる。

「コンビニ寄っていい?」

別に一緒に帰ると約束したわけでもないから、先に帰ってもいい立場の荒北に意地悪な問いをすると、何買うのォ、と言ってくれる。シャー芯、と返す私はこの時間を与えてくれた彼の部活仲間に甘えている。私がシャー芯と期間限定のお菓子を買って外に出ると、荒北はコンビニのガラスに寄り掛かりながら中華まんを食べていた。お菓子を買うか悩んでいたから、多分結構待たせたのだと思い、ごめん、と謝ると、何が?と返された。

「それ肉まん?」
「そう」
「いいな、温かそう」
「もう結構冷たいけどォ?欲しい?」

欲しい、と笑いながら言うと、荒北はあっさりと食べていない方をちぎった。私はびっくりして、まじまじと荒北の赤い顔を見つめる。いつものように睨んでこない。目が合わない。きまりの悪そうな顔で荒北は口を開く。

「いらないのォ」

そうやって冷えかけの肉まんを差し出す荒北は残酷なほど優しい。優しすぎて私にはその欠片を食べることができない。




欠片もいらない/20131111