「じゃあ、古橋は?」
机を椅子で取り囲み、お昼を食べつつ談笑していたら、友人が爆弾を落とした。それは毒薬のように私を苦しめる男の名だった。私は咀嚼していた卵焼きを飲み込むまで平静な顔を保つよう努めた。
話題は、クラスメイトで寝てもいい奴、であった。今日は下ネタかよ、と思いながらも、友人たちと話す馬鹿らしい内容は、難しい授業で疲れた頭を少しほぐしてくれるので、お昼休みは素晴らしい。一人はクラスに既に彼氏がいるのにも関わらず、あえてその名前を挙げずに、きゃいきゃい口を出していた。私も息を抜きながら話題に乗っていたのだ。そう、友人がその爆弾を放つまでは。
「古橋って、あれだよね、能面の」
「そうそう。バスケ部の」
「んー、表情ないからつまんなそう」
「あ、何、想像できんの?私無理だわ」
「想像力ないなぁ」
「あんたは?」
友人たちのやり取りをききながらもぐもぐと食べていた卵焼きはとっくに嚥下していた。話を振られるタイミングを見計らい、わざともうひとつ弁当箱から卵焼きを取った。味わう。ちなみに甘くないやつだ。甘い卵焼きは、なんだか、料理の一品として受け入れられない。もぐもぐ、ごくん、をするまで、私は「んー」と唸りながら、当たり障りのない普段の回答を探った。教室を見回し、当人がいないのも確かめた。二人もお弁当やパンをもぐもぐしていた。
「……ないかな、絶対ねちっこい」
「うそ、めっちゃ淡白っぽそうじゃん」
「ふたりとも、想像できる時点でおかしい」
「想像力なさすぎ」
「あはは」
私は声だけで笑う。そのまま二・三人の名前を挙げたり、下品な冗談に対して圧し殺すように時々笑ったり。教室はガヤガヤと賑やかだし、私たちは小声だ。だからあまり目立たないものの、この会話を周囲にきかれているのかと思うと、私は少しげんなりする。でも、このグループで交わされる低俗な会話は、価値観のこじれた私を癒してくれる。
わりと近場で大声を上げている男子たちは、私たちの会話をきいている素振りはない。素振りは、だ。しかし、また馬鹿な会話してる、という目付きで、教室の端の方で食事している女子グループがちらちら見てくるのが、ひどく煩わしい。彼女たちは、真面目で、賢く、おとなしいことを己の矜持としている。
昔の私は、といっても数ヵ月前だが、彼女たちと似ていたな、と午後いちの授業中ぼんやり思った。霧崎第一は進学校なので、授業の範囲は普通の学校より少し進んでいる。ノートに走らす化学反応式を、私は将来使うのだろうか。少なくとも一年後、進学するようなら、使うことになるだろう。
高校二年生というのは、とてもふわふわした立ち位置だとつくづく思う。一年生のように青春を謳歌するでもなく、三年生のように将来をきちんと見据えるでもない。漫然と漂うように遊び、漠然とした未来に不安を抱く。なんてめんどうな二年生。
ばれない程度にため息をつく。と同時に、何やら視線を感じた。緩く先を辿ると、古橋がこちらを見ていた。
数ヵ月前、私はほぼ毎日、古橋とお昼を食べていた。空き教室でこっそりと。私は、真面目で、賢く、おとなしい態度で、古橋と様々な話をした。主に、お互いの好きな本の話を。ある日、私が持っていた本の題名から単語だけ抜き出して、「来年の夏には二人で海を見に行きたいね」というと、彼は変わらない顔つきのまま、「そうだな」と返してくれたのを、未だに覚えている。
「俺はねちっこいか」
放課後、人通りの少ない廊下を曲がったら、突然腕を引かれたのでびっくりした。何だよ、と思い見やると、私の腕を掴んでいるのは古橋だった。ピクリともしない表情筋。彼は口元だけ動かして、昼に私がこぼした形容詞をたずねた。
「きいてたの」
「いや」
教室にいなかったのは確認した。つまり、人づてにきいたのだろう。私は舌打ちしたいのを堪えた。申し訳なさそうに意図的に眉を下げた。
「ごめんね」
「その顔はもうしなくていい、と、何度いえばわかるのだろうな」
その古橋の言葉で、もういいや、と思った。すべてが面倒になった。私は盛大に舌打ちし、私を掴む古橋の手を思いきり振り払った。顔をしかめて、高い位置にある真っ黒な目を睨んだ。私の顔が映る目は、まるで動じていない。むしろ、僅かに嬉しそうな色が滲んで見えた。まるで、私にこうした粗雑な面があることを知れて嬉しい、とでもいうかのように。
「そういうとこ、すごくねちっこいと思う」
「そうか」
「何度もいったよね、ごめんなさい、って」
「何度もいったな、諦めるつもりはない、と」
お前はそんな熱い男じゃないだろ、と思った。苦々しい渦巻きが胸を埋め尽くす。廊下の角を曲がったところ、つまり階段付近にいるのに、誰も通らないのは、今が部活時間だからだ。私はサボりだが、古橋は体育館にいるべきなのではないか。上の階から微かに笑い声が聞こえた。誰かいるようだった。それがわかるくらい、静かだった。
「……部活行かないの」
「今日は休みなんだ」
「うそつかないで。はやく行ったら?」
私は嘲笑う。古橋の濁った目に映る私を。また私の手を掴もうとした古橋の男らしい手を押し退けた。そのまま横を通り抜けようとすると、古橋は私を掬い上げるように抱き締めた。
「好きだ」
「……古橋、ひとつきいていい?」
「何だ」
「私たちが行くはずだった海はさ、どこにあるの?」
あの約束のしばらく後、私は噂で、古橋がスタメンになったときいた。内緒で見に行った試合はとても感動的な展開だった。人はこんなにも人に幻滅できるのか、と思った。古橋が顔色を変えずに相手校の選手を傷つけるのを見て、あの穏やかな昼時に手にしていた本の内容を思い出していた。
《他人の苦しみに無感動》で《多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥しさもなく今日まで通してきた》という、とある医学生の独白の場面を。その登場人物が、良心の麻痺を自己肯定しつつも、そうした己を恐ろしく不思議がっていたのを、やけに冴えた頭で思い出していたのだ。
別れを口にすると、古橋はまたお昼休みを共に過ごすような関係に戻ろうと何度も接触してきた。しかも、私が一人の時を狙って。その度しおらしそうに「ごめんなさい」と断り続けた私はなかなかの役者だ。
よく考えなくてもわかったはずだった。私にたくさんの顔があるように、古橋にも多面性があり、その内のひとつが、眉ひとつ動かさず人を傷つけることができる面なのだと。
古橋は答えなかった。私は、不器用で、ねちっこくて、意外と熱い一面を見せる能面男に抱き締められながら、毒薬のように苦しい体温を感じていた。古橋の胸から放たれる血の通う音は、海鳴りのように聞こえた。