綺麗に磨かれた爪の表面がマニキュアに塗られていく。大理石に敷かれる真っ赤な絨毯のようで、爪先の存在理由が急騰したような気がした。

「おおー、いい色だねぇ」
「だろう?やはりオレの見立ては良いな」
「さすが!よっ!日本一!」
「無理に褒めなくていいぞ、自身の素晴らしさは理解しているからな」
「ですよねー」

尽八は器用に私の爪を彩る。放課後の教室はまだ早い時間の割には薄暗く、何故なら雪が降っているからで、そのため部活も中止になった。生徒は急ぐようにして皆下校したけれど、おそらく他の教室でも何組か残っていることは容易に想像できた。それは一重に本日の日付が原因である。黒板には既に明日の日付が記されていて、こんな日なんてさっさと終わればいい、という私の気持ちを増長させた。

「ん、終わったぞ。どうだ?」

手元を見れば、私の十枚の爪は綺麗に赤くなっていた。黒板に背を向けて椅子に座る尽八は晴れやかな顔をして小さなマニキュアの蓋をくるくる回していた。

「綺麗」
「ふふん、なかなか似合うぞ。あとは自信を持つのだな」
「ありがと、尽八。もう帰っていいよ」
「ム、もっと誠心誠意を示してほしいものだな!」

マニキュアを私のポーチに仕舞っていた尽八が、その中から除光液をちらつかせたので、私は机に両手をついて頭を下げた。その様に満足したらしく、机脇に下げていた紙袋を右手に、とても幸せそうに尽八は笑った。紙袋からは可愛らしい包装紙と甘い匂いがこぼれている。立ち上がり、座る私の頭を左手で軽く叩いた。

「告白がうまくいくことを、オレも祈ってやろう」

去り際のその言葉が私を後押しした。一息ついて、両手の赤が乾いてから、私は相手を呼び出した場所へと向かった。





ひとつ上の先輩は卒業して、私は高校二年生を終えようとしていた。期末試験もつい先ほど終わり、もう私を縛るものなんてない。黒板の日付がまだ今日のままで、日直が忘れて書き直されなかったのだろうと想像できた。私はぼんやりと、白く刻まれた14の数字を眺めていた。しばらくすると教室の前方のドアが開いた。

「おや、まだ残っていたのか?」
「……うん」

レーパン姿の尽八はつかつかと私に近づく。忘れ物などしないだろうから、私が残っているのを知っていて来たのだろう。わざわざ部活を抜け出てまで。寿一が許すはずない、と思ったけれど、わからない。私みたいな馬鹿にも優しい彼らなら、王者らしく私にも力を与えてくれるのかもしれない。私が教室に残っていると嗅ぎつけたのは恐らく隼人だろう。尽八は机の上に置かれた私の手元を見て、そのまま前の席にこちらを向いて座った。黒板に背を向けたその姿は、一ヶ月前より幾分か輪郭を強くしていた。

「……その色は似合わんな、悪趣味だぞ。また見立ててやろう」

さっさとポーチを出すよう指示され、ぼんやりしたまま右手でカバンを漁った。取り出したネイルポーチをそのまま渡すと、尽八は口を開けた。

「この色がいいだろう。春らしいのではないか?」
「……そうかな。地味だと思う」
「何!?共に選んだではないか!」

尽八が推したから買っただけだよ、とは、さすがに言わなかった。若草のようなコンポーズグリーンと、桜のようなフレッシュピンク。朗らかな色たちが、白味がかった薄いただの生爪に塗られていく。色づく指先が霞んで見えた。

「オレは、できるだけ好意を寄せた相手に尽くしたいと思うのだが、やはり色々な輩がいるものだな」

私は笑ってしまった。知ってる、尽八は尽くしたがりだって。この世に色んな人がいるのも。私なら、尽八に尽くすことはない。大切に思っていても、好いていても、私は尽八に尽くすなんて、したくてもできない。

「その手首は見るに耐えんな。お前には似合わんのだよ」
「そうかな、なかなかおしゃれじゃナァイ?」

私は茶化すように笑った。もう爪を塗り終えた左手を振った。机上にはポーチとマニキュアとカッターがあった。別に大事になるものではない。私が私に尽くす形を赤黒く刻んでいるだけ。まるで今日の日付が書かれた黒板の色を反転させたような、私の手首。

「ム、似てるな。特徴を捉えている」
「でしょ?あはは、靖友にきかれたらぶっとばされそう」
「絶ッ対ありえんな!なぜなら荒北もああ見えて、好いた相手には尽くす奴だからな!」
「私ってば愛されてるなー」
「王者箱学のオレたちに愛されていることをもっと誇るべきだぞ!」

特にこの山神・東堂尽八にここまで尽くさせているのだからな、なんて不敵に笑う尽八は、純粋にすごいと思う。私は自身にこうした魅力があればよかったのにな、と時々思う。右手の爪先に交互に重ねられていく二色は、匂い立つほど春めいていた。

「お返しは貰えたか?」

尽八が優しげな声で訊ねてきた。目は机に置かれた右手に向けて伏せられていて、手はネイルを続けている。器用だ。

「貰えるわけないじゃん」
「ム、つくづくわからん奴だな。もう帰ったのか?」
「うん。なんか、正妻の方とどっか行くらしいよ」
「奴もよく二股などして気を回せるな」
「そりゃ、私に気なんて回してくれたことないもん」
「それもそうだな!」

尽八のいいところは、こうして私の皮肉を聞いては肯定してくれる所だ。私に害なす要素に対して、私を糾弾することはない。ただ、私の自傷癖には度々忠言をかける。他の皆は怒ったり憐れんだりする。でも私は尽八からの忠言が一番好きだ。流したいという意思を示すと、決して深追いしない潔い忠言が。

「よく応援してくれたよね、あの時」
「……いつだ?告白?」
「うん」
「まぁ、あの時は単純に、お前が誰かに尽くすという様に対してな、あー、多分、驚いたのだな。だからかもしれんな」
「なにそれ」
「結局、お前は奴を通して己に尽くしているだけだ、と、今日思い直したがな」
「なにそれー」

図星、私は大袈裟に笑った。チョコレートと共に与えた告白は、浮気相手としてでいいなら、と返したクソ野郎に向けて贈った。クソ野郎だと知った上で呼び出したのは、今日のような見返りのない状況に陥ったのは己の行為(この場合、好意、でも当たりだ)によるものだと思えるからだ。私は私に傷を与える。そうして私自身に尽くす。

「終わったぞ。どうだ?」

たとえ尽八が死んでも、私は後を追わない。尽八の遺したものを、ひとつ残らず自分のものにして、のうのうと生きていくだろう。春咲く爪先を眼前に掲げて、私は何一つ尽八にお返しできないのだと悟った。

「綺麗」




尽くす/20140314