斜め前のお姉さんが痴漢されているのに気づいていた。電車はけっこう混んでいて、それだけで私は十分すぎるほど気分が悪かった。乗客はそれぞれ違った顔をしている。隣のおじさんの皺一つない綺麗なシャツ、そこから伸びるゴツゴツの手がお姉さんの身体を這っていた。蛇のようだ、というにはあまりに無様だ。私の気分は急激に萎えて、立ち位置を変えようと身をよじっていたお姉さんの鞄にぶつかりながらドアを降りた。対岸のホームで男の子が転ぶのを見た。
裂けるチーズをめいっぱい裂いたみたいな草だ、というと、真波は雑草の中に倒れ込みながら笑った。跳ねる髪が裂けるチーズに埋もれている。太陽光――それもこれから夜に沈む――を浴びて白みを帯びた黄色に見える雑草が、彼の柔らかな藍色の髪によく映えた。今日も細いフレームの自転車を携えている。土の匂いとしっとりした山の空気が私を包んでいる。
「こんなところで何をしているんですか」
「せみとり」
「先輩って冗談いえるんですね」
「真波ほどおもしろくないけどね」
「たしかに、あんまりおもしろくなかったです」
こいつ、と寝転ぶ真波の腹に適当に手折った枝を投げる。献花だ、と思うと、私はさみしくなって、そのまま山際から道路に出た。真波は何もいわずに寝ていた。また音楽準備室においでね、と声をかけ、私は山を下りていく。はーい、と間延びした真波の声が後ろから聞こえた。夕焼けに染まった山は黄色の縁取りをされたワッペンのように景色を飾っていた。道際に咲く立葵が美しく空へと伸びていた。すらりとした、あのお姉さんの背骨のように。
真波はそれからも何度かふらふらと音楽準備室にやって来ては、私のピアノを聴いて、夏休みがやってきて、そうして、夏が終わった。私は緩やかに受験へのストレスを溜めながらも、毎日の生活に彩りを添えることを楽しんだ。花屋の前を通ると、いつでも鮮やかで華やかな色の植物が多々見られ、予備校帰りの道はなかなか心地よいものだった。電車は揺れる。珍しく目の前の席が空き座れた。イヤホンを取り出す。隣の席のおじさんが、眼鏡越しに嫌そうな目をする。音漏れでもしているのだろうか。私は目を閉じる。
「あ、そういえばさ、最近あそこで猫の死骸がいっぱい見つかったらしいよ」
「あんな山道で?轢かれたやつ?」
「違うんだって、なんか……こわいタイプのやつ、猟奇殺人みたいな、ズタズタ系」
「へぇ、てか殺人て、殺猫?じゃん。どーぶつあいごほうなんちゃら?」
「あほだぞこいつ、なまえー、普通にこわい話してんじゃん」
こわがってよ、アハハ、と友人はかわいく笑う。私も笑う。次の授業は生物だ。センター試験に生物を選択したけれど、ハエの交配の計算をするのが簡単で良い、と、時々思う。大学受験のため、実力を示す入試のための勉強だから、私は今日も解答を覚えつつある過去問を解く。分厚い赤本を持ち歩くのは疲れるから、年単位でバラバラにしてマスキングテープでとめている。薄い楽譜のようで持っていて楽しい。今は鞄に忍ばせているそれを、帰りに予備校の自習室で解くのだろう。真波は勉強をしているだろうか。
私は甘い菓子パンを頬張りながら、友人の紅茶の紙パックをぼんやり見ている。廊下が何やらうるさい。視線をやればクラスの自転車部の奴らがたむろしていた。
「そういや自転車部負けちゃったね」
「そうみたいね」
「なまえ仲良い子いたよね」
「ああ、うん、いるいる」
「残念だね」
そうかもしれない。
帰りがけ、二階の廊下の窓から真波の姿が見えた。私が知っているあのふらふらとした足取りではない。こうして彼を見かけるのも何度目だろうか。しかし声をかけようと思ったことは一度もない。夏の山に寝転んでいた彼とはもう会えないのだろう。半ば諦めたように私はため息をつく。
諦めた?何を。ばかばかしい、と目を外すと、隣に東堂がいた。静かすぎて気づかず動揺し、東堂に名前を呼ばれて緊張が解けた。
「何を見ているのかと思ってな」
「変な顔してた?」
「苦虫を噛み潰したような」
「まじか、かわいい後輩を睨んでごめんね」
「ふ」
東堂は柔らかく笑った。けれど、どこかに棘のような氷のような痛みを隠してこちらに差し出す笑みだった。私も微笑み返す。まったく力が入らない。東堂の鮮烈な笑顔と比べると完璧に負けていた。
「みょうじは大学は……」
「東京、受かったらね」
「では一人暮らしか」
「そのつもり。電車とか嫌いだから、出来るだけ大学近くに住みたいし」
「そうか」
そのまま特に話すこともないため無言のまま互いに離れた。触れることもなく足音も立てずに隣に来たくせに、今度はやたらと乱雑な音を立てて、東堂は廊下を歩いて行った。丸投げした私の無責任さへの憤りを、美しくない形で示しているように思えた。東堂が山神、と呼ばれていることを、私は知っている。山での私を、彼なら知っているのかもしれない。けれど私には先生からカギをもらっている音楽準備室でピアノを弾くくらいしか出来ない。ふらふらと真波がやって来ない限り、私には何もかもの片付けが出来ないのだ。虚しくなりながら校門へ歩を進めた。今日はイヤホンを忘れたので、お気に入りのクラシックを聴けない。
冬過ぎ、いつものように息抜きでピアノを弾いていたら、ガチャ、と音がしたので、私は懐かしくなって笑った。今日に限って、これか。
「やっほー真波」
「先輩」
「元気かね」
「まあまあですね~、先輩もお元気そうで」
「おかげさまで」
「またずいぶん散らかしてますね」
「好きに使っていいっていわれてるんだもん」
音楽準備室のドアを開けて顔をのぞかせたのは真波だった。私のよく知っている、あのへらへらと軽薄な顔をした真波。すらりとした手足をふらふらと動かしながらも、落ちている楽譜をきれいに避けて近づいてくる。外面はすっかり元に戻ったように見えた。少し背が伸びているような気もする。ピアノの横をすり抜けて、私の横の椅子に座った。
「先輩、大学行って一人暮らししたら掃除は業者さんにやってもらってくださいね」
「あ、すごい失礼なやつだ、私が落ちてたらそのセリフ地雷だったよ絶対」
「受かったってきいてました」
伝えたのは東堂だろう。真波はほわほわと笑って、それから、両目をこちらに向けて、おめでとうございます、といった。鮮烈な目だった。私はそれを見て、これは私の知っている真波ではない、と確信する。似ているけれど変質している。
「そういえば、東堂さんがいってましたよ、なまえは後片付けをしない奴だからダメだ、って」
「何がダメなのかね、まったく」
「何でしょうね~」
ポン、と鍵盤を弾くと、どうでもよくなった。隣にいるのは真波だ。確かに私の好きな、あの真波だ。なら、もう、いいのだ。これは諦めではない。受け入れたのだ。
一曲弾いてから、私は真波にひみつを教えてあげた。ピアノの下に置いておいた鞄のチャックを開ける。
「あ、猫だ」
「かわいいでしょ」
「馴れてますね。餌付けしてるんですか?」
「拾ったの。普段はこっそり別のところにいるんだけどね、今日は特別」
「へぇ、いい日に来たな、オレ」
「そうかな……そうかもしれない」
猫はにゃあ、と鳴いた。私は抱き抱えて膝に乗せ、静かに撫でた。しばらくは撫でられていたが嫌がる素振りを見せたので床に放してあげた。真波が興味深そうにそれを見つめる。猫はふらふらとそのへんを回り歩き、資料棚などをひとしきり嗅ぎ、落ちている楽譜を踏みしめたら、満足げに足元へ戻ってきた。真波が、アレ弾いてくださいよ、というので、私は猫踏んじゃったを弾けるように弾いた。目を閉じて聴き入る真波のまつげを見ながら、今ここでキスしたらどうするだろうな、と、私は考えていた。猫は大人しく足元に座っている。
「一人暮らしついでに、こいつ、飼うつもりなんだ」
「いいですね」
でしょ、と私が笑うと、にゃあと鳴いて擦り寄る猫。柔らかくて細くてしなやかで、きらきらの瞳に私を映している。寝転んで甘えてくる。私は一人暮らしの部屋のカーペットの色を決めている。裂けるチーズの薄い黄色だ。これは内緒にしておこうと思った。いつかやって来た真波が、そこに寝転んでもいいように。
幾度となく想像した光景なのに、真波の形をした人が隣にいるからか、虚しくなった。戻れない。戻りたいわけでもない。あの山が好きなわけでもない。立葵を折るのはもう止めたのだ。けれど、片付けなんてしたくない。受け入れたのだ。私は何もかもを誤魔化すように、猫踏んじゃったを繰り返し弾きながら、振り絞るようにいった。
「いつでも来ていいよ」
真波が珍しく言葉を詰まらせたので、私はピアノを弾くのを止める。ミスをした。そう思った直後、真波が私の制服を掴んだ。ぐい、と引っ張られた先で、真波の心臓が早まっているのを感じた。ドキドキしている。背中に回っていた彼の手が蛇のように緩やかに肩甲骨の間を這い、私の頭をのみ込むように抱える。彼の両目がぎらりと瞬いて、私は目を閉じた。次に彼の口元を見た時には、ふわりと笑っていて、思わず私も微笑む。腕を回し、すらりと伸びた、彼の背骨を触る。
「先輩、猫の名前、オレの名前にしたりしないでね」
「ベタすぎる」