擦り切れそうなゴム底のサンダル、黄色とオレンジのひまわりがプリントされた短パン、白いタンクトップ。夏はいつもそんな格好をしていた。母親に渡される麦わら帽子はもやもや蒸れるから、家を出て次のブロックを曲がる頃にはもう被っていないのだった。ひもでひっかかっただけのそれは首の後ろを日焼けから守るだけで、遊びに熱中するまではちくちくとむず痒く、あたしはいつも持て余していた。大輝はそこに蝉を隠すのがうまかった。
カリフラワーみたいな入道雲が建物の間から見える日、大輝とあたしは公園の小さい池でおたまじゃくしを見つけた。その日はふたりとも虫かごいっぱいの蝉や蝶、カマキリなんかを既に腰に下げていて、一旦帰ってまた何か入れ物を持ってこよう、と約束した。あたしは家路につきながら、かごの中でミンミン鳴く蝉の声など聞こえないかのように、何か適切な入れ物があったかを考えていた。お昼ごはんのこともちょっとだけ考えたけれど、家に着いてみれば食卓に置かれたものはやっぱり素麺なのだった。あたしは台所のゴミ箱からジャムの空き瓶をひっつかんで、流しで二三度適当にすすいだ。そのまま手なんて拭かずに家を飛び出す。池を見るまではまるで戦利品のように誇らしかった虫かごは、邪魔になると思って玄関に置いてけぼりにして。
大輝は金魚鉢を持ってきていた。子どもの手では一抱えしなければならない、青く波打ったガラスの器。あたしは大きな風鈴みたいな入れ物を見て、空き瓶を後ろ手に隠した。そんなこと眼中にもない大輝は、「とるぞ」といった。少し緊張している声だった。あたしも自分の空き瓶のことなんかより、池に少しずつ浸かっていく金魚鉢のふちを、どきどきしながら見つめる。すうっと吸い込まれるように、黒い小さな影がよぎる。バシャッとすくい上げたその中に、たしかにおたまじゃくしは泳いでいた。
おたまじゃくしはとてもかわいかった。ぬめぬめとしたまるい生き物。ひれをゆらゆら動かして頻繁に水をゆく姿は愛おしく、おもちゃとは違う、たしかにひとつのいのちを持つものにあたしは魅了された。蝉とも蝶ともカマキリとも違う。折れるような形ではなく、押しつぶしたらぐにゃりと潰れそうな、まるい形がすてきだった。日差しに透けた水がアスファルトに光を落としてゆらめく様もきれいで、大輝が池をのぞきこみながら、「もっといっぱいほしくね?」なんていってくるから、あたしは、「一匹でじゅうぶんだと思う」と伝える。「そっか」わかった、という顔で池の水に浸した手をひらりと振って彼は笑った。大輝の頬は紅潮していた、あたしもたぶんそうだっただろう、あたし達は興奮していた。風が枝をゆらして葉が鳴った。そうしてふたりの子どもは、池の一部を金魚鉢の世界に切り取ってしまいこんだのだった。
金魚鉢は大輝のものだったので、結局おたまじゃくしは大輝の家に持ち帰られた。けれどあたしはどうしても当事者でありたくて、「ふたりのおたまじゃくしだからね」と帰り際念押ししたのだった。大輝はこぼれんばかりの笑顔で、「おう」とこたえた。抱えた器の中でおたまじゃくしは池の外の世界をガラス越しにうろうろ彷徨い見ていた。夏の傾いた日差しに照らされきらめく水面は、水道水のように透明ではなかったけれど、とても美しいものに見えた。宝石みたいだと思った。
それからは午前中にはまず大輝の家に遊びにいった。玄関先に置かれた金魚鉢にはゴマのような色のおたまじゃくしがいるから。偶然親の付き添いで大輝の家を訪れていたさつきちゃんに、「なまえちゃんって変わってるね」と告げられたことがあり、あたしは麦わら帽子を目深に被って笑いかけるだけで精いっぱいだった。さつきちゃんはかわいらしい顔で、それを笑うこともなく、ただ真っ正直に受け止めていた。そしてあたしはさつきちゃんの言葉にあたしなりに傷つき、それでもおたまじゃくしに会うことはやめなかった。やめられなかった。彼女の白い肌を包む薄い水色のワンピースには胸元に柔らかいピンクのリボンが結んであって、そうした色は、私の夏には存在し得ない色だったのだ。探しても見つからないから、手にすることができない色だったのだ。
おたまじゃくしを連れ去って三日後、玄関先で大輝はにやにやと待ち構えていて、「すげーぞ」と金魚鉢を見せてくれた。あたし達のおたまじゃくしはまるいからだに足を生やし、はみ出たゴミのようなそれを、これ見よがしに見せつけて優雅に泳いでいた。
前足が生える頃になると、大輝はすっかりおたまじゃくしへの興味を失っていた。一週間もたっていない。あたしはまだそれを宝石のように慈しんでいた。慈しまねばならないと思っていた。その日もあたしがやってくると、大輝は、またきたのかよ、という顔をして、「さっさと外いこうぜ」と声をかけてくるのだった。「先にいってていいよ」あたしは持ってきたジャムの空き瓶におたまじゃくしを一旦移して、金魚鉢の水を取り替える。大輝は既に虫かごを下げて日向へと走り出している。あたしはそれを知らないふりして、金魚鉢を入念に洗い、日に晒しておいた水を入れ、足の生え揃ったおたまじゃくしのため砂で僅かに陸地を作る。避難させていた瓶の中で窮屈そうに縮こまるおたまじゃくしを戻してあげる。ポケットから朝ごはんの残り、ごはんつぶとかパンくずとか、そうしたものを、与える。パクパクと口を開けて餌を吸い込むおたまじゃくしの尾は格段に短くなり、かえるのおしりの片鱗を見せていた。金魚鉢の青い流線をなぞってひといきぶん目を閉ざしてから、あたしのサンダルはざりざり音を立てて、見えない大輝の背中を追うのだった。
公園の東屋には制服に身を包んだ高校生くらいのひとが四人いた。あどけない顔つきの、補習帰りという風の彼女達が、あたしにはとても大人に見えた。プリーツスカートから真っ白な足を伸ばしている。木漏れ日の模様を小刻みに身体に添えて公園の中へ入ろうとする大輝に、あたしは弱々しく声をかける。
「今日は他のところで遊ぼうよ」
聞く耳持たない大輝は先をいく。すいすいと泳ぐように。東屋の横を走り去り、奥の方にある林じみた場所で木々を物色している。彼女達は熱心に語らっている。あたしは麦わら帽子を被り、腰に下げた虫かごを東屋とは反対側に向けてから大輝の元へと走る。普段はなんともないその距離が、とてつもなく長く感じた。
大輝は木陰で蝉を捕まえていたらしい。入れる隙間があるのかわからない虫かごに茶色いそれを詰め込んでいた。木々の周りを縫うように動くあたし達が、東屋からはよく見えるだろう。アイスの棒をくわえたお姉さん達にとってはあたし達なんて蝉と大差ないだろう。「いた!」大輝が叫ぶ。ケラケラ笑う彼女達がこちらを見て笑っているのではないか、そんなことを確認してしまうあたしをよそに、大輝は太い幹のちょうどよい高さにとまった油蝉に狙いを定めている。なんの恐怖もない、男の子の顔をして。
「ねぇあの子女の子じゃない?」
「え、あ、ほんとだ」
「虫取り?変わってるね」
なんでそんな声が聞こえたのかわからない。もしかしたら思い込みによる幻聴だったのかもしれない。幼いあたしは限界だったのかもしれない。さまざまなものが、溢れかえりそうにゆらゆらとゆれていたのかもしれない。ジーワジーワ、と蝉が鳴く。あたしは木漏れ日の中、小さな手に蝉を握った大輝を冷たく見つめた。自分の腰に下げた虫かごを胸元に持って、おもむろに蓋を開けた。放たれた箱から虫がまばらに散っていく。数匹の蝉、そして蝶。慌てた大輝が何やらいいながらあたしの手を引っ叩いた時、虫かごには逃げ遅れた一匹のカマキリがいた。紙のような両手の鎌をあたしに向けて構えていた。あたしが思ったのは、同じ虫かごに入れていたのに、このカマキリは蝶を食べなかったのだな、ということだった。
次の日、大輝の家を訪れると、金魚鉢はなくなっていた。なんてことはなくて、平然と、青い波打つガラスの器があって、中には足の生え揃ったおたまじゃくしがいた。作られた砂場で、もうおたまじゃくしとはいえない身体をしていた。かえるになってしまったそれに、あたしは何の感情も湧かず、虫かごを下げた大輝と一緒に、池へ返すことにした。金魚鉢はあたしが抱えた。公園には誰もいなかった。かえるを池へ放したのもあたしだった。大輝はしゃがんだあたしの隣で、ただ突っ立っていたのだった。
「お前まだそんなこと覚えてんの」
「ぼんやり」
「すげえな、俺お前と遊んでたことすら忘れてるわ」
それはひどいんじゃないか。あたしは体操服の胸のところを掴んでぱたぱたと扇ぐ。「お前それやめろ」と大輝は顔をしかめた。ガン見しているくせに。日差しに晒されながら、グラウンドで座り込むあたしの隣で立っている男は引き締まった肉体をジャージに包んでいる。今日の体育は短距離走で、適当にだべる男女はそれぞれ適当な相手と一緒に走ることになっている。男女で違うジャージの色を、あたしはなんとも思わなくなっている。考えるのをやめている。「見せてんのか?」くそくらえだ。
違う中学に進んだから、もう会うこともなくなると思っていた大輝が、何の縁か、高校で同じクラスに名を連ねていたのに気付いた時、あたしはただただおもしろくなかった。できたら不思議な幼少期の思い出として終わらせたかった夏のあの日。再会してしまっては、安っぽいテレビドラマみたいでおもしろくなかった。何よりもおもしろくなかったのが、大輝はあの夏の日どころか、あたしの存在そのものを忘れていたことだ。そんなものだ。あたしだって高校に入るまですっかり忘れていたのだから。百メートル先でスタートを告げる笛が鳴る。男女が走り出す。うなじがじりじりと焼けていく感覚があった。二年も同じクラスになるとは思わなかった。
「さつきちゃんと付き合ってんの?」
「ありえねーから、それ」
「あたしとは?」
「ありえると思ってんの?」
あたしと大輝の前のペアが走り出す。当然のように女子の方が遅く、男子はそれにかまわず走る。あたしは考えるのをやめている、くそくらえだ。空は高い。入道雲はまだ見当たらない。あたしは立ち上がり、おしりについた土を払う。あのおたまじゃくしのおしりとは全然違う、無駄な肉のついた女のおしり。ざりざりと土を踏み足首を回す大輝は既に百メートル先を見据えている。笛が鳴る。