彼の眠る姿が愛らしい、と女生徒たちはいうけれど、私はそれらの発言も、彼が睡眠状態になるということも、内心理解できず疑っている。真波山岳は眠らないのではないか、と。

 クラスは午後特有の柔らかさに包まれている。背を向け数式を解説する教師の声が、まどろみかけた皆の耳へと流れていき、のたくりそうになる文字で、理解もせずに黒板の記号を写している。こういう時、私は鞄にしまってある音楽プレイヤーをそっと机に忍ばせて、そこから続くイヤフォンを耳にしながら授業を聞いても大差ないのでは、と思う。私が友人に勧められるがままに、なんとなく、で聞いているアーティストと同じで、これらの数式の本来の価値は、理解を寄せる相手にしかわからないものなのではないか、と思うのだ。実行に移したことはない。

 宮原さんが授業後に真波山岳の机を叩く。同じ形状の机にノートをしまいながらちらりと見ると、彼はまなじりを下げながら宮原さんに微笑んでいた。私はあくびをひとつ、そのまま机に突っ伏した。

 友人に、「レースの応援にいかない?」と誘われた。自習時間、一応やっとけ、といういい加減さを含めて配られたプリントを片付けた頃。皆各々したいことをしている。いつものように突っ伏しているつもりだったが、話しかけられてしまった。「いこうよ」という彼女に、何のレースだ、と少しだけ思ったが、考えるまでもなく自転車だろう。彼女はトウドウ先輩(漢字を未だに知らない、知らずとも会話が成立するから不思議だ)のファンで、よくトウドウ先輩のかっこよさについてを熱く語るから、おそらく、自転車だ。私はその日特別予定もないし、彼女との交遊は特別苦でもないので、「まぁいいよ」と特別なことなど何もなく了承する。

 本を返却するために、渡り廊下を通っていると、突然頭に感触。撫でるようなそれに振り向くと、真波山岳がいた。口元だけ弧を描いている。私はその顔つきに、薄く笑う何かを連想する。それの名詞が浮かばない内に、彼の弓なりの線が開く。

「今度のレース、見にくるって本当?」

私は頷きながら、「どうして知っているの」と問う。

「聞いた」

誰から、といわず、彼はいう。それでピンときた。やはり真波山岳は眠らないのだ、と。彼の傍にいるからか、私は眠くなる。この感覚とうまく折り合いがつかなくて、だから私はあまり真波山岳とふたりで話したくない。今の真波山岳の周りに広がるありふれた校舎の風景は、私の周りのそれと何も違わない。コンクリートの冷たさも、空の色も、微かに凪ぐような風も。等しく流れる時間も、きっと、違わない。

「俺も出るんだ」

「そうなんだ」というと、すらりとした彼の手がまたしても私の頭を撫でた。数回会話した程度の、ただのクラスメイトの頭を。

「見ててね」

私は、真波山岳の手のひらが温かいことと、有無をいわせぬ要求に僅かに動揺しながら、「うん」と答える。手にした本が少し重い。眠気のような、トロリとした何かが身体を駆け巡っている。彼はにこりと微笑む。数学の後に委員長に見せていた笑顔だ。今度は私に向けてから、彼はスタスタと戻っていった。こちらの進行方向に用があったわけでなく、私に、「見ててね」をいうためにこの場にきたようだった。図書室に足を運びながら、彼は翁の面に似ているのだ、と、ぼんやりとしていたイメージの名詞が、ようやく浮かんだ。もう一度噛み締めて比べてみる。全く似ていないことに、少し安堵する。

 真波山岳とトウドウ先輩が出るヒルクライムレースは、そこそこの人で賑わいをみせている。スタート前のガヤガヤした空気の中、私と友人は多様な人に囲まれながらも、傍には箱学の生徒が多く、その内女生徒のほとんどはトウドウ先輩を応援するようだ。けれど紛れるように真波山岳のファンもいる。私の左隣の女生徒(おそらく先輩)が、「真波くん寝ちゃってる、かわいい」と呟いていて、その視線の先を追うと、先頭付近に真波山岳らしき人物がいた。

 目をつむり俯くような姿勢で細い自転車にまたがるその人が、私にはまったくもって眠ってなど見えない。彼の周りの景色は私とほとんど大差ない。スタート位置とギャラリーという違いはあるけれど、囲む環境は、おそらくそんなに違わない。涼やかな箱根の空気、ざわめき、そして人。けれど、真波山岳そのものは、やはり人とは違うものに思えてならない。彼は、私と同じく、眠らないのだ。

 目をつむるという行為こそ、感覚や意識を研ぎ澄ませた究極的なかたちで、目を開けているときよりもずっと、起きている、のだ。今のようにすぅすぅ息づく授業中の真波山岳は、あのクラス内の誰より透明な意識を保っているように思える。だから、私がこのレースを見にくることになったあの自習時間に、真波山岳は机に突っ伏しながら、私と友人の会話を聞いていたのではないか、と思うのだ。

 なぜなら、私も、そのような状態の時の方が目を開けている時より格段に、起きている、から。不眠症で夜を眠れず過ごすのには、もう慣れていた。慢性的な眠気はきちんとした睡眠を必要としなくなった。いつも感覚は研ぎ澄まされていて、起きていた。だから、真波山岳をはじめて見たとき、こいつは眠ってなどいない、私と同類だ、と直感したのだ。理解を寄せられるものへの価値の付与。だけど、目を開けた彼と対面すると、妙な感覚になる。蓄積された眠気を溢れさせてくる。感覚を鈍らせる。私はたしかに起きているはずなのに。

 私は目をつむる彼を見ているのに早々に飽き、同じようにゆっくりと目をつむる。やはり、こちらの方が感覚が冴えている。隣の女生徒の胸のときめきすら手に取るようにわかる。

 次の日、本を返しにいこうと教室を出て数歩、頭に温かい手のひら。私が振り向くよりも先に、真波山岳が視界に入る。

「見てなかったでしょ」

素直に頷く。彼はふわりと笑んで、綺麗な色をした両目で私を見る。私はちょっとだけ気まずくて、「眠かったの」と言い訳した。

「たしかに、いつも眠そうだよね」

真波山岳が笑う。私は彼の傍だと、たしかに、あまり感覚が働かない。彼の鼓動よりも、私のどきどきした音がうるさくて。なぜなのか、その名称は知っている。「真波にいわれたくないよ」と苦し紛れにいうと、彼はきょとんとした顔で私を見てくる。私はむきになって、「でも私も真波も眠ってないよね」なんて、意味の伝わらないことをいってしまう。「目をつむってる時の方が起きてるって感じない?」と、私は問いかける。真波山岳は茶化すことなく僅かに考えてから、にっこり笑う。

「わかるかもなぁ、すごく集中できていいよね。でも俺は、その後に目を開けた時の、生きてるって感じの方が好きだな」

私は驚く。真波山岳はきっと、私と同じだと思っていたから。勝手な思い込みだ、恥ずかしくて、顔に熱がたまる。そして、私は気づく。真波山岳が私と同じなのではない。私が真波山岳と同じなのだ。だって私の心臓は、両目を開けている彼を見ると、とても、生きてる。

「自転車は俺にとって、生きてる、を感じられるものなんだ。だから俺さ、君に見ててほしかったんだ」

 真波山岳がそういって微笑みかけると、私は眠くなる。正確には、眠くなるような感覚になる。どんな夜も眠れず過ごす私を、その両目で赤子のように眠らせてしまう。「その台詞は、目をつむるばかりな私の中の、生きてる、を、自分に向けてほしかった、ってことなの?」きけない。「私はね、真波が私を見てる時、それを、自転車の時と同じくらい、生きてるって感じてくれればいいのにって思うよ。真波も、私を見て、どきどきすればいいのにって」いえない。どきどきとうるさい心臓。彼が私に生きてる感覚を教えてくれる。恋というのだ、これを、おそらく。撫でてくる手のひらが温かいこと、その笑みが仮面じゃないことがただ嬉しい。私の中での真理。真波山岳は生きているからこそ眠らないのだ。




子守唄を、インソムニア/20131204