(200ミリリットルの牛乳パックを見て思い出すのは、小学校のゴミ箱の並び方だった。給食の時間になると大体の子が一番にすることはストローを突き刺すことで、針と大差ないような細く短いストローを手に、食事を始める。ぼそぼそとしたパンが私はあまり好きでなくて、牛乳やらスープやらでひたひたにしてから食べていたあの賑やかな時間に、ひとりでもくもくと食事をする子がいた。片付けの時になると、燃えるゴミと燃えないゴミに並べられた箱の前で、パックとストローを綺麗に分別して捨てていた、彼の小さな姿を思い出す。)
御堂筋にとって食事はカロリー摂取に過ぎない。ざわめく昼休みの教室で、紫の包みをつまんで机上に出す。食べることは走ること、自転車に乗るために必要不可欠な行為ではあるため、今日も整った歯で米を噛み締める。緑を少し色づかせてきた木々のみえる窓の外は和らいでいた。異質な存在感を放ちながら食事をする御堂筋にも、二学期となれば、食堂に行かない生徒達はだいぶ慣れていた。同じ教室でみょうじは友人とおしゃべりに励んでいた。金曜日に日直なんてついていない、ひとつ余計な仕事がある、面倒だ、と嘆くみょうじをからかい、けたけたと笑い声をあげる友人は、放課後に行く予定のカフェのメニューを諳んじている。みょうじはそれを聞きながら母親の作った冷凍食品の散りばめられた弁当を口にする。隅に置かれたゴミ箱に男子生徒がパンの袋を捨て教室を後にすることで、少しずつ、空気が流れ、変わっていく。
午後の授業は家庭科であった。みょうじは欠伸を噛み殺し、食生活におけるデザインの重要性を説明する教師の服を見ていた。安物のシャツと似た色のチョークがカツカツと音を立てて短くなる。前の席の生徒がこくり、と船を漕いだのを見て、みょうじはたまらず欠伸を漏らした。
「号令やで」
その声にハッとして、れい、と言うとだらだらと皆が頭を下げた。日直は毎時間黒板の清掃をさせられる。家庭科の先生は黒板をきれいにしてから授業を終えてくれるので、日直であるみょうじにとって大助かりだった。うとうとしていた頭はもう元通りで、振り向いた先の御堂筋に礼をいう。御堂筋は無言でこくりと頷くと、数学の教科書を机の中から取り出すのだった。
(バスを待つ。迎えがやってくる方の空はコンクリート色の雲が段を作っていて、誰かが降りてきそうな規則正しい並びをしていた。帰路に着く時に耳から流れるロックがとても格好良くて、私はその歌詞を都合のいいように解釈してきいている。はて、彼が聴いている曲はなんなのだろうか。先ほどから隣にいるのにお互いイヤフォンをしていて会話を交わす気など毛程もない。なんとなく買ったコーヒー牛乳は手にするレジ袋の中で200ミリリットルのパックごとすっかりぬるくなっている。冷たい色の雲を切り裂き大きなシルエットが音を立ててやってきた。バス代はICカードではなくポケットの小銭で払おうと思った。)
日直として最後の仕事、ゴミ捨て、を残し、日誌の提出を終えたみょうじが教室に戻ると、もう誰もいないだろうと踏んでいたそこには御堂筋がいた。彼が自転車競技部に在籍していることは一学期から有名な噂であったので、みょうじは僅かに瞠目した。少し強い風が、咳のような音を立てて窓ガラスを揺らしている。体調不良により午後から早退したもう一人の日直のせいでカフェに寄る予定は早々に諦めざるを得なくなり、先程友人にも断りを入れていたみょうじにはただただ暇なだけの放課後である。しかし部活は正常に行われている。御堂筋は着席したままみょうじの方を見て、人差し指を教室の隅へと向けた。
「ゴミ捨て、代わるで、帰ってええよ」
はたしてこのまま甘えていいものだろうか、そもそも、彼がこのような行為をするとは微塵も思えない、と逡巡しているみょうじをよそに、御堂筋はぼうっと着席している。しなやかな筋肉を潜ませている腕が力なく胴体の両側に垂れている。みょうじはその腕を教科書で見た阿修羅像の腕に似ていると思った。突然獣の雄叫びのような風が鳴り、弾かれたように、みょうじは教室の隅へと向かう。ひとつだけ置かれたゴミ箱の中には、教科書とノートが鎮座していた。
(ざらざらの泡立てネットがもう使い物にならないほどボロボロになっていて、それでも新しく買い換える気になれない。ズボラな私がそこそこ一人暮らしを楽しめているのは、金曜日になるとやってくる彼がいるからかもしれない、と逆上せている頭をバスタオルで力強く掻き回した。下着だけ着けて部屋へ戻ると、コップに入ったスポーツドリンクを飲む彼がベッドに腰掛けていた。テレビ画面を指差している。見てみれば私の好きだったバンドが音楽番組に出演していた。一番ハマっていた頃に比べると、やはり少し、いや、かなり、老けたな、と思わざるを得ないメンバーの顔。私も同じ月日を過ごしたのだと、彼の横に座って気付く。)
週末を明けた教室は清々しい雰囲気に包まれている。人のいない二日間で全てをリセットしたような箱庭。みょうじは直してきたはずの寝癖が元通りになりかけているのを指摘され、ヘアスプレーを持参する友人に泣きついていた。御堂筋が朝練から戻った時にはほぼ全員が自席に着いていて、これから一週間の学業をせめて一番初めの動作くらい揃えてやるか、というような、集団行動の根本が見られた。
お礼に、とあげた飴の袋を友人がゴミ箱へ捨てたのを見て、みょうじはなんとなく中を確認する。既に幾枚かプリントが捨てられている。今日の日直はゴミ捨てがない。御堂筋は長い手を少しだけ上げるようにして黒板のてっぺんらへんを濃い緑色に戻していた。黒板消しがこすれる時の独特のにおいが御堂筋の鼻先を揺らぐ。まだ一限を終えたばかりだというのに、一面真っ白になった黒板消しを、そのまま戻す。廊下からけたけたと笑う声。自席に戻りだらりと垂らした腕に僅かに白色が飛んでいて御堂筋は眉を顰めた。
「御堂筋、呼ばれとるよ」
ぼんやりと窓の外を眺めていた御堂筋はその声にゆったりと振り向く。女生徒越しの教室のドアに同じ部活に在籍する上級生を確かめた。鞄の中から特別なノートを取り出し、御堂筋は席を立つ。同時にみょうじには目を合わせず、ぼそりと、先週末告げるべきだった言葉を振り絞った。柄にもないことをしたからか、大きく机を揺らす。中からはみ出した教科書には、かわいらしい花柄のマスキングテープが貼ってあった。
「おおきに」
(コーヒー牛乳を飲んでいたら服を放られた。苦々しげな表情の彼の腕は器用にフライパンを揺らしていて、いいにおいにうっとりした。朝の日差しが差し込むカーテンの向こうはさぞ透明な空気に包まれていることだろう。散らかっていた部屋はある程度綺麗になっていて、彼はスポーツ選手兼私専用の清掃屋さんだ、と思った。にやける頬にコーヒー牛乳が甘い。朝食の用意ができたことを冷たく告げる声に、うん、と返事をして、私は向かう途中、空のゴミ箱にストローを刺したままのパックを投げ入れた。)