雨の日の街は潮のにおいがする。別にナーバスだとかセンチメンタルだとかでなく、単純に、海の風が溶け込んでくる。あたしはいつ買ったのかも朧げなビニール傘を差して、色の濃いアスファルトを闊歩し駅を目指す。湿気でぼやぼやに霞んでいく視界では街頭が建物の影に滲んでいて、カラーインクをぽつりと流し込んだコーヒーのような、不思議な色合いを作り出していた。ふと、美術の教科書で見た誰かの描いたカフェの灯りは素敵だったな、と思った。どこだっけ、あれ。なんか、パリとか、そんな、おしゃれなかんじのあるところだ。神奈川のとある駅前でそんなことを考えている。あたしは別に、感傷的な気持ちになっているわけじゃない。
黄瀬はコートで泣かなかった。あたしはその姿を見て、なんて賢い子なんだろう、と思った。賢くてかわいそうな子。あたしには、あんなに聡いと、いっそばかな男に見えた。退場する時の泣いている黄瀬の金髪がはらりと添えられた首からまとわりつく、あの青のユニフォームは、どこまでも濁りなく綺麗な色だった。とても似合っていた。いとおしかった。
部活を引退してからというもの、あたしは受験勉強に必死だった。昨日ようやく本命の受験を終え、落ちたかもな、と半ば思いながら、予備校を出たら雨が降っていた。ほんのり潮のにおいのする街を、色とりどりの傘が行き交うところは、熱帯魚が優雅に泳いでいるようでおもしろいな、と思う。あたしのからだは透明、骨の見える魚だ。道に反射する傘の色が綺麗だったけど、とにかく目が疲れていた。極力地面を見ながら進む。緩やかな坂になった駅前の横道から、すごく鮮やかなブルーの反射が差して、バッと顔を上げたけれど、全然知らない男の人で、あたしはすぐに視線を逸らして駅へ急いだ。
日はとっくに暮れ、まばらながら大人がたくさん道沿いに帰っていく。流行していたギャラクシー柄が駅前の店頭に並んでいるのを見かけて、胸がむかむかしてくる。そろそろ廃れていくだろう流行の柄。銀河の色って本当にあんなに綺麗な色合いなんだろうか。あんな綺麗な世界を見たことがない。でもきっとあのカフェの絵を描いた人には、パリとか、そんなおしゃれなかんじの街じゃなくても、たとえば神奈川の駅前のスタバでも、宇宙みたいに綺麗な色で見えているのかもしれない。黄色の絵の具を塗りたくれるのかもしれない。グツグツに煮えた胃液が逆流してきそうだ。見たことがないの、あたしは、あんな世界を。それでも雨はさっきよりも弱まっていく。どうせならザアザアと降ってほしい。理不尽で身勝手な欲求をどこにもぶつけられない。あたしは感傷的な気持ちになっているのではない、怒っているのだ。選手を差し置いて先に泣いてしまった自分の不甲斐なさにいまだに怒っているのだ。
笠松は本当にいい男だ。あんなにかっこよくて強くて美しい男はなかなかいない、というくらいの逸材だ。海原にきらきら輝く。眩しいくらい気骨のあるキャプテンだった。柔らかく背骨と手首を逸らして、波が小石や貝を転がすようにボールを扱う森山。小堀はしなやかにポジションを取りチームを回す、滞りない水脈のような男だった。あんなに海常の色が似合う男たちはいない。何を言ってるのかよくわからない早川もボールへの執着がずば抜けていて、中村も、みんな頑張っていて、そしてあたしはこの部の一部として黄瀬を見ていて、黄瀬はあたしではなく勝利を見ていた。チームとしての勝利を。だからあたしは黄瀬がいとおしいと思っていた。監督が彼を海常に連れてきた真意が見えてきた頃、つまり黄瀬が海常のエースとして自覚してきた頃、あたしはどっしりと構える監督を見ては大人は賢いのだと実感し、職員室でぽにょぽにょのお腹を苦々しそうに撫でる監督に感謝したし、本当に好きだと思ったのだ。
監督は泣いたあたしをあやすように数度背中を叩いた。泣くつもりなんてなかったんです、とグズグズになった顔面のまま誰にともなく弁明した。悔しい。ただ悔しいと思った。あたしの背骨を揺らしながら「みょうじも泣いていいんだ」と監督は言った。本当にこの学校のこの部が、余すところなく好きだと思った。だから悔しかった。あんなにみんなが行き交っていた長方形のコートも試合会場スペースの一部になっていた。すべての結末がこの長方形で完結してしまう。ベンチの横で自分用のタオルを久しぶりにまともに濡らした、あの日からどんどん遠ざかっている。黄瀬は、最後の試合には出なかった。出られなかった。これからの、海常のために。
駅は人で混み合っていて、それでもみんなが向かうべきところへ歩んでいるから好きだった。いまのあたしには居心地が悪くてぼんやりとリュックの紐を握る。既に滑り止めには合格していたけど、昨日の試験を少し思い起こして、帰ったらまた参考書を読もう、と意気込んだ。ケータイを確認すると、珍しいことに黄瀬から数分前にメッセージが届いていた。「センパイ卒業式は来れますか?」いくよ、と返信すると、どうやら相手は画面をいじっていたらしく、ふきだしはすぐに既読を付けた。了解、というかわいらしいスタンプが送られてきて、あたしは少しだけ虚しくなった。
駅のホームにも雨が降り込んで来ていた。波打ち際のホーム、転落死、そんなイメージが僅かによぎった。
監督とバスケに関係ないことを話すのが少しだけむず痒かった、あの感情は、マネージャーをやめてからあまり感じなくなってしまった。当然のように進路相談に乗ってもらって、評定平均の話をして、それがさみしいという感情を引き起こすことなくすとんと胸に落ちたことが、あたしはわりと衝撃だった。廊下で黄瀬が挨拶する時、黄瀬をかわいい後輩として見ることがなくなり、かっこいい男の子として見てしまいそうになるのも衝撃だった。リミッターを設けていたつもりは微塵もなかったし、黄瀬はたしかに部活動の後輩でありつつもとてもかっこいいひとりの男の子であったけれど、私からバスケ部という称号が剥落したのと同時に、黄瀬から部活の先輩としての私がぱきぱきと剥がれてしまったような、そんな雰囲気を感じた。もちろん黄瀬本人は興味のない人間に対して挨拶などすることもないため、それはあたしだけが感じていることなんだろう。どうする気もない。卒業したらもう会わなくなる彼に、まるで未練はないし、彼もきっとそうだから。
黄瀬はエースとして走った。世界は続いていくから、そのために、彼は存在していなければならなくて、わかりきっているけれど。わかりきっているけれど残酷なほどに美しい選択は、未来を輝かしく導くわけではない。卒業式までの日を、あたしは緩やかに死にゆきながら過ごし続ける。ホームは人でごった返している。びしゃびしゃの路面の轍にこれでもかと雨が跳ね返るのを見つめながら、あたしは水の循環図を思い描く。
峰から沸き起こった水が流れ着くのは海だ。空の色を深く映す。深みはただ闇のようで、人は宇宙にぽっかり浮かぶ月には行けたのに、まだこの星の海底にたどり着いたことがないという。ホームに滑り込んできた電車のライトが優しい。あたしは海常がだいすきだ。青の精鋭。かっこよくて強くて美しい。きっと海底には、あのカフェの灯りのような、渦巻く空の月のような、いとおしい黄色の炎が灯っている。あたしは信じている。勝利はとめどなく流れ続ける川の瀬に沈む砂金の色。川の流れが運んでくる金色。金色がきらきら水の中を揺れる。プシューッと音を立ててドアが閉まった。ゆらゆらと揺られながら、海中を進む提灯アンコウのような電車が、神奈川の線路を走っていく。