職員室を出ると、ドアの横に花宮が立っていてぎょっとした。思わず足を止めてしまったのを気にしないで歩を再開しその場から離れる。それでも花宮は何も言わずに、壁に寄り掛かってプリントを眺めていた。相手に動く気がないようなのを理解し早足を止め、廊下を歩いていった。後ろに花宮がいるのをわかっているから、私は俯き気味で進む。遠ざかって廊下の角を曲がると誰もいない感覚になれて落ち着いた。職員室の中にいた時と同じく、花宮という存在をすっきり意識から退けていられた。目に当てず手にしていた氷の入った袋を、ここは一階だしいいや、と思って廊下の窓から捨てた。何にも触れていないのが心許なくて、カーディガンの裾を握った。
教室に戻るとクラスメイト達は静まり返ってこちらを見てきた。数名の男子生徒が呼び掛けるように「おい」とか「お前さ」を向けてきて、それを近場の人に諫められている光景を極力見ないようにしながら、自席に置いてある筆箱と数札の教科書類を手にした。動かした手首と共に視界に入ったカーディガンの裾が、くしゃくしゃによれているのがわかった。カーディガンの上から、椅子に置いておいたブレザーを着る。痛くなった目の奥を意識しないように気をつけて、俯いたまま机の横に引っ提げた鞄に荷物を詰めた。下を向いているとうっかりしてしまいそうだから顔を上げて進みたいのに、周囲から向けられる視線が緩むことはなかった。手にした鞄を落とさない、涙は見せない、けれど余裕綽々の態度でいてはいけない、という難しい注意点を守って、私は気まずい教室を後にした。出ていく直前に誰かが「信じられない」と囁いたのが耳に残って、舞い戻った廊下を進みながら、私も、と心の中で同意した。その時には既に顔を上げて進んでいた。
このまま下校するのはぎこちなくて嫌だった。足が向いたのは三階の非常階段。鍵開けは手慣れたもので、取っ手に取り付けられたプラスチックカバーを外すのに数秒を要しただけだった。四ヶ所のネジのうち、右上と左下はなくなっていて、右下の一個を爪で回せば枷は簡単に解放された。外した小さなネジをスカートのポケットに入れて階段側から鍵を掛ければ完璧。個室トイレよりも余程ひとりきりになれる、お気に入りの立ち入り禁止スポット。まぁ、ここにいた記憶は、ふたりきりの時の方が圧倒的に多いのだけれど。
「疲れた」
溜め息と一緒に吐き出された感情が、汚れたコンクリートの階段にぶつかる。我ながら弱々しい声だと思った。かわいそうなこの場所はとても静かで、学校脇に植えられた木のさわさわした音が聞こえるだけだった。階段のてっぺんで立つと、近隣の景色と灰色と水色の中間みたいな空が見えた。たん、たん、と数段下りたところ、土と木の葉の腐ったもので汚れた段差に鞄を敷いて、その上に座る。校舎の塗られた壁と階段の地の色むき出しの壁に囲われて、圧迫間。お尻に当たった鞄の中のペンケースの位置を整えた。股にうまく挟まって、なんだかいけないことをしている気持ちになって、中学生みたいな発想にふっと笑ってしまって、そしたら、堪えきれなくて涙が出た。
「泣いてんじゃねぇか」
不意に花宮の声がして、でもこんな劇的な展開になることを心のどこかで分かっていた私は、よれよれの袖口で目を拭った。開ける時の音に気づかなかったのは多分花宮が音を立てないよう気を付けていたからだろう。あの取っ手は捻ると結構派手に音が鳴るのだ。私はドアが閉まる音を背中で聞いていた。私が外側から掛けた鍵を開けることができるのは花宮だけだ。実はここの鍵は、取っ手を思いっきり反対側に捻ると何故か外れるのだ。しかも反対回しだからか、こちらは捻っても音が鳴らない。それを知っていてここに入れることを知る人は、私と花宮以外いない。
「泣かないとは言ってなかったでしょ」
「ハッ、どうだか。まぁ、なかなか清々しい出来事だったぜ」
「うん、それは私も思った」
止まない涙をそのままに振り向いて笑うと、花宮はゆっくりと近くにやって来て二段上くらいの段差に座った。珍しいことだった。ここで会う時、花宮は立っていることが多かった。長話になった時もしゃがむ程度で、お尻をコンクリートに付けるなんてことは絶対にしない奴なのに。掃除もされない風雨に曝された汚い場所。ふたりが隣に並ぶことすら出来ない幅しかない階段。花宮の方がドアに近いこの配置は、ここで会う回数を重ねるうちに自然と決められていったのだった。私は前を向き直った。階段の下の方の踊り場には、この間来た時に置いていった、捨てていったとも言う、丸めた満点の小テストが落ちていた。
「お前が担任に言われたこと、当ててやろうか」
「そんなの、花宮には簡単すぎる問題じゃん。もっと楽しい話してよ」
「俺はこの話、楽しいよ」
「クソ花宮」
「《お前がこんなくだらないことをするとはやっぱり思えない。あいつの言い分も聞くが、お前は今日はもう帰っていいから、よく考えてこい》だろ」
「似てない!」
私はゲラゲラ笑った。笑えば笑うほど涙が出た。きっと花宮は、特徴的な眉を寄せつまらなそうな顔でいるだろう。先程職員室で言われた正解に完璧に一致した台詞だった。やはり聞いていたらしい。その陳腐な台詞の内容より、あの花宮が担任の声真似をしたということの方が、余程私を惨めにさせた。それは花宮が私を馬鹿にするために馬鹿な振る舞いをするという、究極のからかい方だった。花宮と私はお互いを小馬鹿にし合う関係で、だから私はあえてそれを笑った。それが一番いい距離感だった。
「あっさりした終わり方だったな」
「なんかもう、疲れちゃってさ」
「それもそうか」
遠くでチャイムが鳴った。こんな場所にも響くので、学生は管理されていて楽だなぁ、と思ってしまう。本日最後の授業はたしか古典。今のチャイムは先程の終業の鐘。つまり今は休み時間。ここに花宮と私がいるということは、花宮は古典を自主休講するようだ。なら、少なくともかのクラスでは次の古典、三人分の席が空いているはずだ。スカートが皺にならないように、整えて座り直した。
「あの手紙に書いたこと、教えてあげようか」
私は目を袖口で覆いながら語りかける。後ろで花宮がハッと鼻で笑った。
「聞いてやってもいい」
「優しいなぁ!《分かるからいらねぇ》って言うかと思った」
「ふはっ、似てねぇよ」
「うそ、結構自信あったのにな。花宮話し方ねちっこいよね」
「突き落とされてぇのか、テメェは」
背中に上履きの固い底が触れた。おみ足の長いこと。「汚い」と言うと、花宮は「テメェのが汚ぇ」と笑った。蹴りたい背中でもないくせに、花宮は二三度げしげしと私のブレザーを詰った。そうして飽きたらしく、脊椎に触れる感触が消えた。
「《貴方のことをいじめていたのは、出席番号 番です》って書いたの」
「チッ、外した。名前かと思ってた」
「短絡的だなぁ」
「回りくどいことやってたくせに。よく言うぜ」
「本当にそうだね」
私はまたゲラゲラ笑った。片目を押さえたまま振り返って様子を見ると、花宮もおかしそうに肩を震わせていた。私の顔を見て、白けたように表情をなくした。
「なんだ、泣き止んだのかよ。つまんねぇな」
「花宮にうけるために泣いたわけじゃないし。まだ痛いんだけど」
「自業自得だろ。見せてみろよ」
「ん」
覆っていた手を退けてやると花宮は吹き出した。失礼な奴だな、と思った。右目の奥がじんじんと痛んで、でも押さえたところで痛くなくなるわけでもないし、そのまま壁に背を付けて横向きに花宮と向き合った。
「逆襲されちゃった。まさか授業中に来るとは思わなかったわ、びっくりした」
「どうせ分かっててやったんだろ。あいつ、限界っぽかったもんな」
「薄々ヒントを与えてたのに、いつまでも気付かないんだもん」
「テメェも限界だったのかよ。短気だな」
私はとある少女を弄んでいた。その子はクラスの中で少し浮いていて、単純に分かりやすいサブカル好きの暗い子で、それが好条件だったので、勝手に、スタートの合図もなしに、いじめの対象にした。彼女をいじめましょ、なんて、友人たちに声を掛けたわけではない。ただ、ひとりで、陰湿で古典的な手は思い付く限り行った。そうした行動の理由は未だに分からない。難問だ。私だけが犯人だった頃、周りは誰ひとりとして彼女がいじめられているとは気付かなかっただろう。彼女は健気にもひとりでいじめに耐えていたのだ。
「そういえば、私さっきの授業のプリントやってない」
「やらなくていいんじゃねぇの」
「ちゃっかり自分だけ提出してたくせに。あの後の教室がうるさくて、提出するふりして抜け出しただけでしょ」
「半分はテメェがあのクソ教師にしおらしそうな演技してんのを見る目的だったよ」
「私が怒られてる様子は傍目に見ていかがでした?」
「さっき言ったろ。なかなか清々しかったよ」
彼女が徐々に登校しなくなってきて、私自身も飽きてきた頃に、花宮と出会った。ドラマチックだった。部活のない放課後、右ネジをスカートのポケットに閉まって、鞄を敷いたところで、派手な音を立ててドアが開いて、本当にびっくりしたのだった。「ネジ開けんのうめぇな」と、入って来て一番に、花宮は言った。ただの頭のいいクラスメイトだと思っていた花宮真くんは、立ち入り禁止の非常階段に普通に入ってくるとんでもない性悪だと分かって、「右上と左下取っぱらったの、花宮だったんだ」と、私は言った。それから次第に楽しみを共有するようになった。
花宮は彼女に優しくした。もちろん人目のないところで、他人には彼女と花宮が話をする仲だとは一切悟らせないように。彼女は僅かな可能性をちらつかされ、まんまと心を開いた。それでも彼女はいじめられているという現実にはひたすらひとりで耐えた。花宮はただ時々優しげに微笑んでやるあくまで部外者な男子生徒だった。その頃から私がいじめていると仄めかすサインをそこはかとなく残した。しかしそれらは、元々出来が悪いくせに花宮という存在にのぼせきった彼女の頭にはまるで伝わらず、私と花宮は度々彼女のそうした様子を報告しては、ここで腹を抱えて笑い合った。
それから花宮と彼女は少しだけ付き合い、すぐに別れた。「よくあの子で勃ったね」と茶化すと、「やってねぇよ、バァカ」と返してきた。その時の花宮の楽しそうな目を忘れられない。私にそっくりだった。彼女は完全に憔悴していた。見るからに不幸極まりないその様子に、周囲も薄々感づいてきている様なので、その日の小テストを階段で見詰めながら、そろそろ手を引こうと思った。満点のテストをぐしゃりと潰して、そしたら、これだ、と思った。ひらめくとはこういうことかとも思った。その日花宮は部活で私はひとりだったので、階段の下に丸めたテストを投げて、《明日終わらせる》というメールを花宮に送ってから、すぐに帰宅した。夜、花宮から返ってきたのは《泣くなよ》だった。
そして今日、私は普段いじめる際に使っていた便箋に自分の出席番号を含めたかの文を書いて、綺麗に折ってから彼女に渡した。授業中に見てね、と言って。今まで話したこともない私からの突然の接触に、彼女はおどおどと対応してきて、それが堪らなく庇護欲をそそった。けれど私は彼女の壊れる様が見たかった。案の定彼女は授業中に突然立ち上がり、私の席まで来て、何度も何度も私の右目を殴った。授業をしていた担任が彼女を押さえ付ける時、彼女は私にひたすら怨恨の言葉を吐き掛けた。
「終わらせちゃったなぁ」
「おい、泣くなよ、きめぇから」
「疲れたよ、花宮」
本当に楽しかった。この非常階段で日々彼女の弱った姿を思い出すのは、とても興奮した。私を殴る彼女の表情は私を幸福で満たした。終わらせてしまった。そうして私が泣いている間、花宮はずっとこっちを見ていた。