イヤホンを外すのが億劫だ。流していた音楽はとっくに鳴り止み、周囲の物音や話し声を鈍らせているだけのものと化しているにもかかわらず、つけたままのそれを持て余している。さして気にもならなかったからそのままずるずると過ごしていたのに、外す、という思考を湧き起こした原因が煩わしい。
左に立つ男が肩を叩く。流石にふたりきりというわけでもなく、ちらほらと生徒が点在するも、図書室はやはり静かだ。こいつはなんて異質なのだろうか。私は開いていた本のページ数を覚えてから、魚のように口を開閉しベラベラと話出している男を見やる。面倒だし聞こえなくはないから別段そのままでもいいのだが、司書の先生に怒られては流石にかわいそうなので胸元のコードを引いた。耳栓が落ちる。
「その外し方は女子としてどうなのだ?まぁ、いい。話は聞いたな?」
「イヤホンしてたんだけど」
「何、音は流してなかっただろう?」
そりゃ、そうだけど。私は腑に落ちない。肩に置かれたままの手がいやに熱くて、身を守るように少しだけ肩甲骨を動かす。卓上の本は参考書云々の類ではなく、なんとなくで読んでいた適当なもので、先ほどページを覚えたもののはやくも内容が薄れていた。東堂はにやりと口角を上げ、さぁ、と促す。私はやはり、腑に落ちない。
「詳しくないんだよ、私。ギャラリーが欲しいなら他あたりなよ。行かないから」
「ならんよ、なまえに来て欲しいのだ」
耳障りだ。東堂の、まるで本心ではないその誘い文句が、私は気色悪くてたまらない。図書室の静寂で倍増された声が耳について、私は自分の心の胡散臭さに辟易としている。
ある大会で東堂が負けた、と聞いた時、妙に感心した。自転車競技に興味はあったが、それはたまたま自分の通う学校がその競技の強豪だったからであり、わざわざ進んで覗く気はなかった。結構仲のいいクラスメイトの男子が注目されている選手だと知っていたが、彼の人格形成にさして影響を与えているとは思っていなかった。スポーツをしない私にとって、競技で己が作られる、という感覚は馴染みがなかった。負けたという事実を知る数日前、私は東堂と少し話した。
「なまえはオレの登りを見ずに、よくオレと話してくれるな」
東堂がそういった時、私はその言葉の意味が推し量れず、はぁ、とか、うん、とか、煮え切らない音を返した気がする。化学実験室では、皆が試験管の中の反応を雑談しながらかりかりと書いていた。ここではある意味隣の席ではあった。班は別だった。
「見に来たいとは思わんのか?」
「まぁ、あんまり。行ってもわかんないし」
私は塩化ナトリウムと硝酸銀のふたつの水溶液を合わせ、濁る様を教科書通りの表現で書く。白色沈殿、の、でん、を書いたら、東堂は満足気に、それもそうだな、と頷いた。声音だけでもわかるほど、それが印象的だった。
負けた、と人づてに聞いたのはその数日後の体育の授業中だった。どうやらあの会話の時、既に彼は大会で奇しくも二位を刻んでいたらしい。彼がその大会後、同い年の女子に向けて暴言らしきものを吐いた、という噂を耳にしたのも、皆がバレーボールをしている時だった。
彼への認識を改めたのはその時からだ。危うい自信を固めて作られたような男だと思っていた。自信家であるとは思っていたし、それは諸刃の剣なのだろう、とも思っていた。挫折をしたことがないのではなく、それを認識せず歩んできている人間特有の、生っぽいにおいがすると思っていた。体育の授業というのは、隅でまとまった埃のようなやる気のない人種にとっては、駄弁るための時間だった。
東堂くん、こないだの大会で負けたんだって。同い年の奴に負けたんだって。しかも、応援にきてたファンの子に怒ったらしいよ。そうなんだ、知らない、それ。なんかね、≪私、自転車に詳しくないけど、東堂くんの登りはかっこよかったよ≫、って励ましたらしいんだよね、その子。へぇ。そしたら、東堂くん、すごい静かな声で、でもめちゃくちゃ怖い声でさ、≪詳しくないなら、オレに美を語らないでくれないか≫、っていったらしいよ。
私はそれを聞いて震えた。やる気のある一部の人間がボールを体育館の天井へと高く上げ、地へと打つ。バンッと音を立てた球体が跳ねた。
卓上に落ちて這うコードをくるくるとまとめて、私は鞄に収める。置かれた手がまた一度肩を叩く。これみよがしに溜息をつき、私は立ち上がる。かたん、とイスを鳴らして整えてから本を棚へと戻すと、東堂は隣を歩く。目は爛々と輝いているが煌びやかさは感じられない。彼の目には無駄がない。研磨されずとも鈍く光るようで、あの時の教科書の表現がふさわしい気がする。
自分自身を美しいものとなし得ないうちは、人は美に近づく権利を持たない、といったのは、誰だったか。よく喋る口をペダルのように回しながら廊下を行く隣の男は、あれからずいぶんと、柔らかく、美しくなった。磨かれたわけではない。曇り、沈み、積もったものが、角のあった色を和らげる。話続けている東堂に一度相槌を打ってやると調子に乗ってまた肩を叩いた。
「巻ちゃんも来るぞ!つまり、この山神と巻ちゃんとの熾烈な戦いを見れる絶好の機会だ!」
「へぇ、そうですか」
「そうなんだ!楽しみだろう?」
「全然」
だって、私は詳しくない。自転車にも、美にも、恋にも、薄い興味しか向けない。知ろうとしない。続かないのだ、いつの間にか鳴り止んでいた音楽のように。それでもイヤホンを外さないように、惰性でそのままにしている恋を、覚えられない本の内容のような冗長な駄作にしか仕上げられない。東堂とは違う。東堂は認めたのだ。自身に、負けを、熱を、更なる美をもたらした存在を。
乱雑に、引きちぎるように、耳から続くそれを取り除こうと足掻く、私は醜い。