いらない?と尋ねる声に目線をやれば、爽やかに笑う伊月がいた。差し出すように向けられた手が何かをつまんでいたので、ちょうだい、と手を出す。もらえるものが何かわかっていないままに。気持ち良く酔っていた意識は少し醒めていた。さっきまでそこ、今伊月のいる隣、にいた子が、トイレに立って、それから席を移動して別のテーブルで男に寄り掛かって笑っているのが見えた。くそだ。手の平に殻のついた豆。もらったピスタチオひとつぶをうまく割れない。伊月が笑う。仄かに照らされる程度の照明でがやがやと話し合う男女の集団に、私は溶け込むようにして座っている。

「酔ってるからだから、これは」
「何のいいわけだよ、それ」

ばればれだった。くつくつと笑っている伊月が愛しかった。まつげが目頭を掠めた。熱い。私は震える指先で、彼にばれないようにこっそりと、かばんにそのひとつぶをしまった。

新入生歓迎会と称したどうしようもないはしゃぎたがりの集いから帰宅する。二次会以降には顔を出さなかった。終電一本前の電車は少し混んでいてヒールがおぼつかない。改札に入る前に、あの、隣に座っていた新入生の女の子がお持ち帰りされるのをばっちり見た。私はかばんを肩から外し手でぷらぷらと揺らしながら、身体全てが電車に揺られるのがしんみりと馴染んで目を瞑った。大海原のブランコを漕ぎながら、水に包まれて大の字になって寝ているような時が、過ぎていく。

鍵を差し込み回し、ガチャリという解錠音を確認するや否や、ものすごい勢いでドアを開けた。身を隠すように部屋に入ってすぐにドアロックを下ろして鍵をかけた。とてもいい気分だ。靴を脱ぐとまどろみの中の恍惚がぐるぐると血中を泳ぎ回る。解錠音なんてひとつも聞こえない。私の身体に鍵のかかった場所など今やどこにも見当たらない、ような錯覚を味わわせてくれるアルコールは偉大なり。倒れるように敷きっぱなしの布団に潜り込めばとても心地いいだろうに、そこまで酔えていない私は洗面台で化粧を落とす。溶け出すアイメイクは普段より少し濃かった。まぶたを撫で回すと、そこに触れた伊月のまつげを思い出して、次いで、その時の自分の行動を思い出した。あ、と声を上げた私の顔が鏡に写っている。まぬけめ。

かばんには、たしかにあの時のピスタチオが収められていた。たったひとつぶの豆を割ることも出来ずに、いいわけがましく触れた唇をなぞったけれど、そこに塗っていたルージュはもう落ちていた。かばんの闇にぼんやりと浮かぶ一点を摘み、ぱきり、と指先に力を込めれば、あっけなくむき出しになった。なんともいえない。

部屋着に着替える気が完全に失せた私は、ひとつぶの豆を握りながら横になった。進学した先に伊月がいて、もちろんそれは示し合わせたものなのに、どっちつかずのまま時だけが過ぎた。とてもつまらないダジャレをかましては残念がられていた高校の頃の伊月は健在で、ますますきれいになっていくのを私は見てきた。関係を言葉で明確にしたことはなく、おそらく向こうも、その気はない。ピスタチオを口に含む。一瞬の塩気だけを残して味はなくなり、私はそれを舌で転がすだけ転がし、吐き出して捨てた。

いかない?という伊月からのメッセージに気づいたのは昼過ぎだった。既読をつけてしまったであろう画面には画像が添付してあって、いつだったか、ちょっといってみたいなぁ、と呟いた展覧会のDMが写っていた。怖くなって、いかない、と急いで返信する。洗濯をしている間に既読がついていて、わかった、と浮かぶ吹き出しが私を余計に煽った。しわだらけになっていた昨日の服が吊るされてベランダで揺れていた。

「今度日向とかと会うんだけど、なまえもくる?」
「ううん、リコいるならいくー」

なんてことなく誘いがあってほっとした。リコから既にその件はきいていたし、おいでよ、と言われていたのだけれど、気まずくて保留にしていた。カントクくるよ、と伊月が言うのが面白くて、いいかげんカントク呼びやめなよ、と茶化す。伊月のきれいな黒髪がすごく好きで、私は大袈裟なほど笑った。懐かしい後輩の名前で時間を潰した。伊月の目は時々何かを訴えるように揺らいでいたけれど、見なかったふりをして。

馴染みのある顔触れの中でまるで酔えていない私は、それでも、飲み放題のジントニックをひたすらに口に含んでいた。かつてバスケをしていたメンバーは固まっていて、私はリコと仲が良く時々取材を手伝ったりしていたけれど、賑やかな塊に混ざろうとはどうしても思えなかった。遠くで伊月が笑っていた。あと少しだけしたら何かいいわけして帰ろうと考えていたから、隣から声をかけられた時は驚いた。

みょうじさん、お疲れですか」

思わず手にしていたグラスを大きく揺らして中身をこぼしてしまった。いつの間にか隣にはかつての後輩がいて、私は彼が少しだけ苦手だった。大きな目。皿に残っていたポテトのかすをつまんで口に運ぶ彼は、零れた液体を一緒に拭いてくれた。口先だけで、すみません、と言う彼に、黒子くん相変わらずだね、と笑った。おしぼりが重く濡れてしまい、それを整えて机に置いたら、彼は小さく微笑んで、お互い様です、とだけ伝えてきた。私がグラスを揺らした時、大きな笑い声のする方に視線を彷徨わせたのを、彼はきっと知っている。

「抜けますか」
「……うん、そろそろ、レポート残ってるし、」
「ああ、いいですよそれ以上は」
「……まいるね、本当に」
「ふふ、僕もそろそろ出ようと思っていたので」

彼はとても深く笑うから、私はその視線を追わないように残っていたジントニックをただ飲んだ。満ちない私と同じ、安物のライムの香りが隣からわずかに漂っていた。似ている、というには彼はあまりに賢かった。馬鹿な私は、はやく立ち上がらないといけない、と意味なく焦っていた。

あの後ふたりで消えるようにいなくなったことを、伊月が問うことはなかった。気づいていたと私は確信している。なのにその話題に触れないから、このままでいいのだ、と言い聞かせるように、今日もくだらない話をした。部屋に帰る前に寄ったコンビニでピスタチオを買ったけれど、いつか食べよう、と食品庫にしまった。飲むと時々揺らぐ彼の目と口は、きちんと誤魔化してから塞ぐから、大丈夫、大丈夫、大丈夫。伊月は今日もきれいだ。私の太ももにするりと触れる手のひらは何も語らない。今はひとつぶだって割れないままでいい、彼の前ではお酒もこぼさない、いいわけの下手な馬鹿でいる甘え。さらさらの黒い髪もまつげも、とてもきれいだ。子供のよう。




ピスタチオグリーンは大人の色/20140623