「自転車選手てレース前にオナニーするん?」
なんて、天気を訊くみたく普通に訊ねてくるもんやから、
「ハァ?」
といわざるを得ない。部室前のスペースでデローザを整備中のボクの横に現れたそいつは、何食わぬ顔で続ける。
「そないピッチピチの服で走っとって、勃ってもうたらどないしよってなるやん?」
アホちゃうか、こいつ。地面にしゃがむボクに向かって少し屈む身体。腰に手を当てて、顔を覗き込んでくる目がアホ全開。ボクと同じ地表についとる棒切れみたいな両足が、ぴらぴらの布きれの端からきれいな重心で突き出とる。何の躊躇いもなくその布をぺろんとめくる。黒。
「……ついとらんもんなァ」
いいながらスカートの裾から手を離してやると、またさっきとおんなじ光景。デローザ、しゃがむボク、突き出た両足。アホ女は何も起きてないかのようにケロリとしている。
「ついてないんよ」
恥じらいって何やったっけ。
「不思議やね、なんでキミみたいなんについてへんのやろね」
「それなァ。御堂筋のをもろてもええんよ?」
皮肉をいっても伝わらんから意味ない上に、ボクの神経逆撫でするようなことをペラペラ放つ。
「くれてやらんよ」
と返すと、
「ケチ」
と真顔で文句いうからほんまにキモい。こういう無駄な軽口をいい合うのは何度目か、興味もないから数えとらん。デローザをちらりと見やる女。自分は自転車乗らんのに、このバイクがいいバイクであるのを知っとるから、触れてこない。アホやのにそういうところは賢明。石垣クンの躾がいいんやろね。アホくさ。
「あと、クンつけや」
「何?」
「御堂筋、やのうて、御堂筋クン、や」
アホくさすぎるので、こいつのスカした真顔を崩してやろうとする。ザク共の前では従順な犬よろしくコロコロ変わるその顔が化けの皮剥がれていく様を見たいのに、
「何それ。後輩にクンつけるわけないやろ」
なんてふてぶてしいこいつは、アホ面のまま。怒ってくれた方がまだマシ、何度話そうが変わらん態度がむかつく。じとーっと睨んでも効果はない。
「光太郎たちはチャリ部やから、クンづけするかもわからんけど、私帰宅部なんで」
「帰宅部なら帰宅せなアカンやろ、バイバイ」
「今日の活動内容は光太郎と一緒に帰路につく、やねん」
「さよか。ザクならまだメニュー中や、残念やね」
隣に女がしゃがみ込む。ちょっと跳ねた自分の肩を気にしないように、タイヤのチェック。
「御堂筋は?終わったん?」
「終わったに決まっとるやろ」
「えらいなァ」
えらないわアホ。当たり前や、ボクがザク共より多いメニューをこなしてんのも、バイク整備も、全部勝利のためなんやから。呼吸とおんなじ、生きるために、前に進み続けるために自然と行うもの。勝利のみで固めた道を行くのが御堂筋翔クンの生きる意味なんやから。お前みたいなアホ女との無駄話なんて、一秒もいらんのや。
「……キモいわ」
「や~もう、ほんま素直やね」
「キミの心は折れるってことないんか」
「私の骨はガラス製やないからなァ」
付き合いきれん。縮こまっとるアホの背中を手すりがわりに立ち上がる。デローザに触れたら、女が話しかけてきた。
「御堂筋、振り向いてみ」
「クンつけや」
「御堂筋クン、振り向いてみてください」
振り向いてみる。女は一歩下がったところで先ほどと変わらん体勢、しゃがんだまま。楽しそうな顔つき、と思ったら、怪訝な顔に。
「何やの」
「……くわえるポジションぴったり、て思たのに、御堂筋ほんま足長いな」
アホすぎて腹立つ。しゃがんだ頭を思いっきりひっぱたく。さすがに痛かったのか、女はギャアと鳴き声みたいな悲鳴をあげた。
「冗談やんもう……ほんまかいらしなァ」
「キミほんまキモいな、キモ、キモいで」
「……」
黙った。気にしたのかとちらりと顔を見やれば、真顔。ようやく凹んだのかと思えば、
「……よう考えたら、スポーツ選手は試合前オナ禁するやんな」
なんてほざくから、こいつは駄目だ、手遅れや。ボクは疲れた。バイクを抱えて部室に向かえば、女はすくりと立ち上がり着いてきた。部室に入り、女が後に続こうとしたところで、ドアを閉める。ドンドン叩かれるドア。
「入れてや」
「頼み方」
「入れてください」
ドアから手を離してやると、隙間から顔だけ覗かせて真顔で呟いてくる。
「阿呆筋」
バチンとドアを閉じもう一度女を閉め出してやると、様づけで謝ってきたので大人な対応をしてやる。部室内のベンチに一人分の間を空けて共に座って、無意味極まりない女の言葉をあしらう。別に反応しなくても、と思うけど、自然と軽口に付き合う。女は天気のことから石垣クンとのことまで気ままに話す。
「いい天気やね、最近ごはんが美味しいね、髪伸ばそ思うんやけど手入れがなァ、光太郎の告白の言葉はドストレートに《すきや付き合うてくれ》だったんよ」
などなど。ほぼ聞き流していた。
「人間には人生を失敗する権利があるんやって」
だから、突然そんなことをいい出したのにも、曖昧な相槌で済ませた。何の話やと考えて、頭に染みたところで、
「……何やのそれ」
とツッコミを入れてしまい、すぐ後悔した。ああまたべらべら話し始めるぞ、と覚悟したのに、女は真顔のまま、
「こないだ見た映画でいうとったんよ」
と、それだけいって、黙った。とっさに言葉がボクの口から飛び出た。
「いい言葉やね」
都合のいい言葉やね。甘ちゃんにはいい慰めになる、逃げの言葉やね。それこそオナニーやね。ボクはぼーっと部室の壁を見つめる。ずっと、ひたすら見つめる。穴でも空くか、というくらい。部室のドアが開いて、ザク共がぞろぞろと入ってきて、ようやく意識を戻す。石垣クンがぽかんと口を開けてこっちを見るもんやから、何や、と思って周りを見渡す。ボクの横では空いていた一人分に横たわって女が寝ていた。とりあえずひっぱたく。眉間にシワを寄せてうーと唸った。鳴き声や。徐々に開く目がボクを見て、それから、泳いで、
「……あ、光太郎、帰ろ」
へにゃりと締まりのないアホ面で笑う。石垣クンに向かって。上体を起こしながら
「外におるね」
といって大きく伸びをする。立ち上がり様に折れたぴらぴらのスカートの裾を直して、中途半端な長さの髪を撫でながら、ドアの前で振り返る。石垣クンではなく、ボクを見て、
「御堂筋の骨がポキッて折れたら、慰めてあげるよ」
と、微笑んでから、出ていった。勃起寸前のボクは置いてきぼりか。アホらし。寝よ。