平日の夜、十一時から三十分までの間にコールがあると、それは決まって黄瀬からの電話で、私は嬉しいのと煩わしいのでもやもやする。一日の終わり付近、ちょっと気の抜けた頃、けれど寝るにはもったいない気がする曖昧な時間帯に、設定をまったくいじっていない着信音が主張する。とる時もあれば無視するときもある。大体の時は無視する。電話越しの黄瀬の声はいつも以上に白々しく演技がかっていて、話しているとイラつく時があるから。我ながらもっともらしい理由だ。なので、震えながら音を放つそれを、今日も無視する。
次の日半分寝たままの脳みそを学校まで運ぶ。廊下で予鈴が鳴る。特別急ぐことなく、普段通りに教室に入り、席について鞄を置いたところで本鈴。高い音階のはずなのに、毎日何度も聞くせいか、私の脳みそには鈍く響く。窓側の席付近で、ぬるい自然光と冷たい蛍光灯の色が混ざる。ちらほら点在する眠そうなクラスメイト。どろどろの意識のまま迎える朝のHRは、私を含む無気力な大抵の生徒にとって、完全に形骸化している。
二個隣のクラスの友人を、お昼を共にするために迎えに教室を出ると、廊下には女子たちに囲まれた黄瀬がいた。先ほど鳴ったチャイムよりずっと高い声で話している彼女たちは、かわいらしいしぐさで競うように黄瀬に媚びている。訂正、かわいらしいというよりあざとい。彼女たちと黄瀬で形成された集団は、廊下というセーターにできたダマみたいに、一直線のそこで一部だけ膨れて留まっている。行き交うその他の生徒たちと同じく、お弁当をぶら提げながら、その横をすり抜けていく。ちらとも視線を寄越さない黄瀬は、今だって、別に作った笑顔でいるわけではない、らしい。彼は自由気儘に振る舞っていて、結果、女の子と話すのは別段苦ではないらしく、つまり、そのあざとい笑顔は自然体なのだという。以前話していた。私には、その話も含めて、すべてが白々しく思える。
その日の夜も、十一時を十分過ぎた頃に携帯が鳴る。右手に携帯を、部屋の床に積まれた数冊の漫画から、一回だけ軽く目を通した少女漫画を左手に、ベッドにダイブ。仰向けで電話に出ると、胡散臭い黄瀬の声がする。
「今日は出てくれる気がしてたんスよ」
「挨拶」
「こんばんは、なまえ」
「こんばんは、黄瀬」
私はベッドに置いた携帯に右耳を当てて横向きに寝ながら、左手だけでパラパラと漫画を眺める。結構懐かしい部類に入るような漫画。長く続いているせいか、この主人公と恋の相手は、何度も同じようなすれ違いを繰り返している。
「今日昼黄瀬のこと見かけたよ」
「え、いつ?」
「昼だってば」
「……アレは違うッスよ、ちゃんと断ったし、俺はなまえ一筋ッスよ」
「廊下だよ。昼休み始まってすぐ」
「あ、なんだ。いやでも断ったから」
「別にいいのに」
「なまえさ、俺と付き合ってるのもう嫌だ?」
「そうじゃないけど。ていうか、私いつの間に黄瀬と付き合ってたの、初知りなんだけど」
「え」
無言の間。パラ、と捲ったページでは、吹き出しが一切なくて、なにやらほわほわした灰色の中、主人公の心境が書かれている。私の右耳はまだ音を拾わない。しばらくお待ちください、みたいな脳内テロップを貼ったら、ちょっとだけ弱々しい、機械越しの黄瀬の声。
「……冗談?」
「イエス、イッツアジョーク」
「しんどい……心臓に悪い」
「ドキドキした?」
「悪い意味でね。なんでそんな冗談……」
「でもなんか、付き合ってる感ないよね。つくづく」
「それは!なまえが!毎晩のラブコールに!出てくれないからッス!」
「え?何だって?」
「ラブコール!」
私はちょっと面白くて笑う。黄瀬は、くそー、なんて嘘臭く悔しがった声を出していて、漫画の中では主人公と相手がじゃれあっていて、それらもちょっと楽しくて、笑う。
「正直ラブコールはめんどいわ」
「なんでそういうこというんスか!俺ばっかじゃん愛情表現してんの!」
「え?何だって?」
「愛情表現!なまえはドライすぎて俺さみしいッスよ」
「そう?私も結構さみしいよ。黄瀬全然構ってくれないし」
「そんなことないッスよ!こうして話してるのだって俺が電話してるからじゃん!」
軽い冗談のつもりで受け答えしたら、今日の黄瀬はガチっぽく、こういう、全力で私にぶつかってますよ、という姿勢がイラつく。しかし指摘はもっともなので黙る。そもそも黄瀬が束縛は嫌だといったのを気にしている私がバカなのだし、こうして話すのは、嬉しいのも確かなのだ。もやもやしている内の、キラキラしたものだけを選んで、見せつける。私も彼を取り巻く女の子たちと同じで、黄瀬に媚びている。そのはずなのに、今日の私は、手元の紙面で素直に愛を伝えあっているやつらに影響でもされたのか、もやもやの底にあるドロドロをひとさじ掬って、彼へと差し出す。
「でも学校では黄瀬、一切話さないよね。顔見ない日とかもあるし」
「……」
「クラスも隣だし仕方ないけど。ファンの子たちの嫉妬もこわいけど」
「……」
「でもなんか、付き合う、ってどんなのだ?みたいになる」
「……しゃべっていいの?学校で?」
「……いや、どっちでもいいけど」
ひとさじだけだ。電話越しじゃなくて、黄瀬の、あの白々しい日常のひとつに触れたい、なんて。こんなドロドロの本音を向けたら、きっと黄瀬は汚くなる。せっかくかっこいいのに、私のドロドロをなすり付けては、駄目だ。……嘘だ。そんな殊勝なことは考えたこともない。身勝手な自分を認めたくないから、黄瀬を利用して清らかな彼女像であろうとする。ポエムみたいな文章を心中唱えるなんて、そんなこと、私らしくない。左手の漫画の中で幸せいっぱいになっている二人をパラパラ捲ると、十数ページ後には、またしても辛そうな顔をした主人公が。相手の男もだけど、本当に、バカみたいだ。
「何で黙るの。イッツアジョークだよ」
「……そっか。今日さ、笠松先輩がさ、」
「うん」
黄瀬の声が右耳にくすぐったい。演技だろうと本気だろうと、向けてくれるものが嬉しい。表層的な日常の中、とりわけ中身を悟らせない彼。それでもいい。彼のきれいな外観が好きだ。チャラそうで意外と一途なところや、こうして私に十一時から寝るまでの時間をくれるところも好きだ。全部をくれるわけじゃないところが、今となっては、好きだ。私も全部を黄瀬に向けることはできないから。
お昼を友人と食べるため、自然と廊下へ向かう足。開け放たれたままのドアのすぐ先に、黄瀬が見えた。今日はダマになっていない。廊下の窓から差し込む光が髪に当たってキラキラしている。私を見て、ふわりと笑う目元も、痺れるほどかっこいい。
「なまえ、ごはん一緒に食べよう」
「……挨拶」
「こんにちは、なまえ」
「バカじゃないの」
「行動力あるバカなんで。愛情表現ッスよ」
バカみたいなお決まりの展開を喜ぶ私。それを、なんて茶番だ、と冷めて見つめる私がいる。そんな私が、彼からの電話をとらないという選択をする。実は彼の携帯が私の着メロを変えていることも知っている。私からかけたのは付き合ってすぐの頃の一度だけで、それから少しして黄瀬のタイプを聞かされ、かけるのをやめた。少女漫画の主人公なら、こんな私を臆病者と思うだろう。享受する日常で、黄瀬は特別になりそうでならない。たとえどんなに黄瀬から与えられるものが私を弾ませても、だからこそ、携帯の着メロは変えない。絶対に。