「バッシュの擦れる音より筋トレの時に機材が立てる音の方が好きだ、ってレオにいったら、変わってる、って笑われたんだ。あれは、そう、ちょうどレオたちが今の君くらいの時だ」
「そうか」
伝えるでもなく呟くと、柔らかい声。赤司くんは手を休めず機材を動かす。ギィギィ鈍く音が鳴る。発育途中の男子高校生が筋肉を鍛えるのを間近で見て、私はその時のことを思い出す。私がその機材を使って両腕を開閉しても、きっと数回で疲れてしまうし、強くしなやかな筋肉がつくことはないし、ただ適度に痛んで終わるだけだ。私はそのことがさみしい。事実をさみしがるのがとても虚しいことだという事実も、さみしい。
「レオが、ネットを潜る時の音が一番、とかいうから、コタが、」
「ドリブル音が一番」
「そう。そしたら永吉が、飯食ってる時だろ、とかいって」
私は他愛ない昔話をペラペラと吐き出す。まだ赤司くんのいない頃の、赤司くんの知らない私たちの話を淡々と。洛山は名門だ。部活の時間が長いので、必然、マネージャーである私と彼ら二年生たちとの時間はそこそこあって、話は尽きない。けれど休憩の時のちょっとしたネタがメインで。私と彼らの過ごした時間の内殆どの時間を、私が彼らに費やしたのに対し、彼らは真剣にバスケと向き合っていた。今の赤司くんと同じように、手を抜かない。すごいな、と思う。私は三年目にしてようやく、最短時間で簡単にタオルを畳む術を身につけた。いかに手を抜きつつもきちんと見せるか、怠慢と妥協の行く末だった。たとえ私がバスケと向き合っても、きっとそうやって、どこかで力を抜くだろう。
「あの頃のレオは今よりちょっと声が高かったなぁ。すごく背が高いのに、なんか、中途半端で、かわいかった」
「そうか」
ギィギィ言う機材の音がメトロノームみたいで、トレーニングルームは心地いい。私は手にしたタオルをいじりながら壁の側に立っている。赤司くんの両腕が開く度、真っ直ぐ前を向く赤司くんの喉元が見える。私はその流線形に暫し魅とれる。手にしたタオルを軽く握ると、赤司くんの方から珍しく話しかけてくる。
「もう帰りたいなら帰っていい、鍵なら自分で閉める」
「いや、待つよ」
ラインが僅かに動いて、また、柔らかい声。赤司くんの台詞は軋む機械のメトロノームに合わせて歌う主旋律のようだ。私の高いだけのつまらない声とは違う。こうして声を掛け合うと、ますます置いていかれた子どもの気持ちになるようで、私はひとりさみしい。私たち以外いないトレーニングルームは、たったふたりで行う劇の舞台のような異様な佇まいだ。小さく灯る室内の電気は窓の外より明るい。
「やはりいい加減帰ろうか」
「うん」
私が窓の外を眺めたのを気にしたのか、赤司くんは腕の開閉を止めた。気を遣わせてしまって少し後ろめたい。機材を離れこちらに近づいた赤司くんにタオルを渡すと、赤司くんはタオルで首もとを拭いてから、着替えてくる、と言う。背を向けドアから出ていく。私は遅ればせながら頷き、そのままトレーニングルームの壁に背を着けて座る。少しひんやりした壁を感じながら、近くに貼られた体の部位を表す図を見て、各部所の英単語をぼんやり思い出す。そうして、様々なことを夢想する。
暫くすると再びドアを開けて赤司くんがやって来て、帰ろうか、と言う。今度こそタイミングよく頷くつもりが傾いたのかわからないくらいしか動かない私の首。私は立ち上がりながらまたしても下らないことを言う。
「喉仏って英語で言うとかわいいよねぇ」
「そうか?」
「うん、すごくかわいい。響きが」
「りんごを詰まらせるような男をかわいいなんて、考えたこともないよ」
「変わってる?」
「いや、そうでもない」
赤司くんの言葉がくすぐったくて、私は少し照れ臭くて笑う。ドアを出て鍵を掛けて、隣を歩きながら、バスケ選手としては小さいはずの赤司くんとの予想以上の身長の隔たりを実感して、私は少しだけ背筋を伸ばす。
「なんとなくね、さっき、二人だけだったからかなぁ。あの部屋はエデンみたいだなって考えてた」
「面白いね」
「私、君の肋骨と土で出来てるのかも、なんて思ってた」
「そう」
「で、自分の酔いっぷりに気持ち悪くなってた」
赤司くんが遠慮なく笑う。私は内心複雑だ。暇すぎて随分電波なことを考えていた。しかし赤司くんはこんな私でも決して無下にしない。校門を出て少しすると右手に温もりを感じて、口元が緩む。赤司くんはまたしても珍しく話しかけてきて、私はその声音に夜のはじまりを感じる。
「喉仏のりんごが禁断の果実じゃなく、ウィリアム・テルの射るものなのだとしたら、男はみんな死んでいるさ」
「……そうだね。ねぇ、赤司くん」
「なんだ」
「誰それ」
「……君は世界史選択だろう」
ぽつりと投げられた言葉で、そういえば、と、どこか、たしかスイスらへんの逸話を思い出す。そして先程の台詞が赤司くんなりの、私の最大のコンプレックスへの慰めだと気づく。どこまでもタイミングを計れない私の脳みそは赤司くんのそれとは比べるまでもなく劣悪で、年の功はたかだか二歳では生まれないのだと思う。
「赤司くんの喉仏は私が守ってあげるよ」
「そうか」
「私、赤司くんの声好きだから」
「……そうか」
それから赤司くんは他愛ない昔話を語ってくれる。りんごにまつわる数々のお話を。赤司くんはバスケやその他の面ではどこまでもリアリストで隙無くかっこいいくせに、こういう時、どこかかわいい、と思う。そして私のそうした認識こそ赤司くんの計算の上にあって、私の取り扱い説明書に載っていることであるのだろう、とも。赤司くんが、彼の喉に詰まった原罪から、ニュートンのりんごを吐き出す。
ここでお別れ、というポイントで、赤司くんがこちらを見ながら、小さな声で最後の逸話を話す。私は、男の子から男へと、善良なエデンの住人から追放された人間へと変わっていくであろう赤司くんの、まだ声変わりしきっていない柔らかい声を、薄闇の中で聞く。
「テルは、射損じたら、命じた奴を射るつもりで、二本の矢を持っていたそうだ」
「ずるい」
「だから、お前も僕を殺していいんだ」
「ばかだな、赤司くん。私は君を守る側だよ」
赤司くんは節だった手でふにふにした肉のついた私の腕を引き寄せて、静かに唇を合わせる。私は今度こそ、というタイミングでゆっくりと口を開く。すがりつくように掴んだ彼の腕はかつてのレオのようにまだ発育途中で、でも、赤司くんが掴む私の腕とはまるで違う。別種のものみたいで、私はさみしい。
さみしいのはそれらの事実を受け入れているからで、私は女の腕で彼らのバスケを手伝う他ない。彼らの基盤を作る機材のようになれたら、と思っていた一年生の頃の私は、結局甲高い摩擦音のような一時的なものでしかないのだ、と悟った。歳を重ねる度さみしくなる。けれど赤司くんが私に吐き出す酸素を、受け入れることはできる。